back 理事長 相沢英之 のメッセージ
       「地声寸言」
  2010.02.24リリース

第五十九回 <「外国飛び歩き」>
  今年に入って、どういう回り合わせか、一ヶ月足らずの間に三回も海外に出る羽目になった。
 一月十三日から北京へ十五日まで。二十二日からパリへ二十八日まで、続いて二月三日から八日までカンボジアへである。
 北京へは、今学長をしている東京福祉大学の用事で事務局長などと一緒に中国からの留学生の募集に関してであった。現在大学グループ(専修学校を含めて)には五百名の外国人留学生が在籍しているが、そのうち四一七名が中国人である。
 この頃少子化現象のせいか、人口の割に学生の定数が多いためかわからないが、定員割れのため赤字となり、廃校、廃部に追い込まれる大学も出始めている。私立学校は経営を大事にしなければならないし、そのためには定員割れなど起らないように募集に力を入れなければならない。
 幸い本学はよく経済誌にも発表されているように文系私学日本一の就職率を誇って、いわばウリにしている。しかし、就職力がいいということと学生数とは直接関係のないことであって、学校の経営のためには極力学生数を確保しなければならない。就職率が良いというだけでは学生が集まって来ない。そこに努力と工夫がいる。
 一昨年うまくないことがあって、一時入学者数が懸念されたが、関係部門の努力もあって、短大を含めた本学の入学者数は一昨年八二〇名、昨年九二〇名に対し、今年は一一〇〇人を越えると見られているので一息ついているところである。就職に繋がる実践的教育が評価されて来たと敢て自讃をしている。
 それはそれとして、専修学校を含めて留学生を増募することが良策と考えられた。
 中国は何と言っても十三億の人口を擁する大国、しかも日本語を覚えれば日本で、本国で就職の道が開けるとあっては、米国についで日本への留学希望者が増加している。日本としても、今後のことを考えると社会福祉や介護の面で中国人が働いてくれることは望ましいことであるので、いわば大学グループの国際化伸展の一環として中国人留学生の増募を真剣に考えたいと思っている。無論中国人以外にも外国人が留学している。台湾、スリランカ、ネパールなどからであるが、今後はロシア、インドなどからの学生の招致を進めたいと考えている。外務省とも連絡をとり、現地での援助を仰いでいるが、外務省としても留学生三〇万人の計画がかけ声だけに終らないようにするための協力は惜しまないようである。
 北京には留学生を世話するいわば業者が一〇〇以上もあるという話であったが、単なる人買いに終ってはとんでもないことなので、確かな、真面目な世話役を選んで連繋をとって留学生を募集することを検討している。
 それにしても北京に変りようは凄まじい。あれだけ早朝の北京の街をやかましいほどベルの音を響かせて大河のように走っていた自転車の流れはすっかり消えて今や車の大行列である。中国は自動車の生産も購入台数も昨年世界一となったというが、これでは確かに嘘ではないと思った。ビルやマンションが林立し、昔、芥川が杜の都と評した古都の姿は消えて今や近代都市に変容している。夜の胡同を「チェンメン、ハーターメン」などと流していたあのうら悲しいようなタバコ売りの声も聞えなくなった。何であの城壁を壊してしまったんだろう、土地は国のものだから、必要があれば古都北京の隣りに新しい街を作ればよかったのにと中日友好協会の寥承志会長に話したのも三十年前であった。会長は本当だねと温顔をうなづかせながら笑っていた。
 年率一〇%のGDPの成長を続ける中国の力はそれが軍事力に回った場合恐ろしいほでである。ともあれ、文化、教育、福祉などの面で力を合わせられたらいいな、と思っている。
 パリも何年かぶりであった。ANAのマイレージが溜ったのを勿体ないから消化する意味もあって昨年から計画していたのが、延び延びになってやっと実現した。家内と付人の三人で真冬のパリの街を歩いたが、零下の空気は冷たく、クリスマスの光の装飾もなく、いささか期待外れの一週間であった。昔はパリには欲しいものが一杯あったが、今は私が買いたいものは二、三本のネクタイぐらいに過ぎない。円が高くなったこともあって、パリと東京との価格差は大いに縮まっている。
 カンボジアは東京ロータリーを中心としたロータリーの「クリアランド完遂記念の旅」が日航のチャーター便で催されるというので家内と参加した。タイとの国境に近いシュムリ・アップ州で実際に対人地雷の除去をしているイギリスのNGO「へーロー・トラスト」に約一億三千万円の資金援助をし、五千余りの地雷を除去した十年の計画が終り、完遂記念式典が実施されることになり、それに参加した。パリのマイナス十度に比べて、この地は日中三十七、八度、真夏というもおろかな暑さで目まいがする程であった。
 暮らすだけなら町で三万円かそこら、田舎で一万円という貧しいカンボジアの住民たちのあばらや同然の住居の続く道をバスで走りながらアンコールワットの遺跡も見物した。昔栄えた壮大な都の建物の修復も続けられているが、こうして世界遺産として世界各地に遺されているものは、いずれも昔昔のその昔、人民の膏血をしぼって王候貴族が造った宮殿の遺跡などであることを思うといささかの感慨がなきにしもあらずであった。
 シェムリアップの町中には立派な建物も散在している。一握りの金持ちと多くの貧民という構図は大体独裁国の姿であるが、ここカンボジアもその点では似ているようだが、読者諸賢如何に思われるか。
 
 


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