back | 理事長
相沢英之 のメッセージ 「地声寸言」 |
2010.02.04リリース |
第五十八回 <「中国の変貌」> |
この間三日程東京福祉大学の学長として北京を訪ねた。北京には十回ぐらい行っているが、前回からは八年が経っている。この間の変わり様は全く目を見張るものがあって、かつての胡同で昔懐かしい街の風情を知っている私にとっては、全く別の大都市に来たような気がしてならなかった。
かつて芥川が杜の都と評した北京の面影は城壁とともにとっくの昔になくなっているが、ニューヨークなど米国の都市にも似て高層ビルやマンションが本当に櫛比している。二年前にオリンピックを開催したこの首都の空港なども途方もない大きさとなっている。 人口千二百万人というが、本当はもっと多いのではないか、という。あの道を埋め尽くすようにリンリンと鈴をならして走っていた自転車の流れは自動車にとって変わって、朝早くから通勤の車が川のように広い高速道を流れている。 昭和五十一年暮れに初当選した自民党議員で「きさらぎ会」という政策研究会を作ったが、私が推されて会長になっていた。その中の有志八名で台湾を訪ね蒋介石の長男蒋経国総統初め台湾政府の首脳と会い、台南、高雄を視察したが、翌年、中国を訪問することになった。日中友好協会の協力もあって中日友好協会の廖承志会長、孫平化秘書長などの大変懇篤な接待により、王震全人代副委員長などの要人とも会い、又、故宮博物館、中南海公園、天壇、明の十三陵などの名所も見物する機会も得て大変有意義な時間を持てた。 当時、中ソ関係は極めて厳しい緊張状態にあり、われわれは遠慮なく廖会長にも質問したが、彼は、国際関係はともかくとして、中国の共産党はソ連の共産党とは全くの隔絶状態にあること、中ソの友好同盟相互援助条約は三十年の期限の満了する翌年をもって打ち切ることなどを明言し、中ソ間の緊張状態の原因まで挙げて説明もあった。 そして、もし中ソ間が戦争状態になることに備え、原爆が投下されても一月間市民を護るために北京市に二百万人収容の地下壕を掘っていることを知らせ、そして、戦争となっても中国の人口は十四億人、ソ連は二億人、仮に一対一で差し違えても中国民は十二億人が残るから大丈夫というようなことまで話した。 私たちは流石中国人の言うことは違うな、と感心し、又、地下壕も見に行ったが、何と、商店の床の一部を開けると、ずっと階段で深い地下に入って行く。中は蟻の巣のように手堀りの壕が延々と連なり、所々に発電所、食糧庫や燃料庫のような施設も備えられていた。 当時北京の人口は四百万人。二百万人の地下壕では半分の人はどうなるのかと尋ねたら、廖会長笑って市外へ出して置くのですよと事もなげに言っていた。 ナポレオンやヒトラーのロシア侵入は結局冬将軍にやられたのではないか、と思っているが、たとえソ連が中国に攻め込んでも、人口には勝てないのではないか、と思わされる一幕の話であった。 それから何回も中国を訪ねたが、その近代化のための開発のスピードはまことに刮目すべきものがあった。 私は、今から六十五年も前、陸軍の主計将校として北京の北支方面軍の司令部経理部に勤務をしていた。中支へ派遣されるまでの短かい期間であったが、東交民巷の元アメリカ軍兵舎から東四の軍司令部に車で通い、経営科(建築関係)で事務をとるという、丁度官庁勤めのような生活を送っていた。緑の多い北京の美しい街は米軍の空襲も受けることもなく、物は高いが何でもあるし、食物はうまいこの戦地とはとても思えぬ北京での生活をエンジョイしていた。 それから軍の命令で南京を経て漢口へ転任、何べんも空襲で死に損なった挙句に北鮮へ移駐。やれ嬉しやと思ったら二十年の八月十五日の終戦後、三十八度線の北にいたばかりに三年のソ連の抑留生活を体験することになった。 人の運命はわからないものであるが、その短かったが美しい北京の街での生活は忘れられない一コマであるだけに、戦後の北京の街の変り様は本当に唖然とするほどの強い印象を受けている。 戦後、最初にきさらぎ会で来た時は、建設現場もあちこち見せて貰った。何とかいうダムの現場へ行ったら、何と五、六千人の労働者が上半身裸のような恰好でシャベルにつるはし、もっこという原始的な装備で蟻のように動いて土を運んでいるではないか。ブルドーザーやモータースクレーパーもなく、僅かにトラックが動いていたが、それでも数の力は恐ろしいことを眼の前に見せて貰う思いであった。 空港へ通う広い道路を更に拡幅している。昔の並木が邪魔になる。朝そこを通ったときは一本の木に十人ぐらいの人がはりついている。何百本かわからない。何をしているのかな、と思っていたら、もう帰る時みたその並木は三百メートルにもわたって全部動かされて、道幅は拡がっているではないか。あっという思いであった。 その時は、丁度唐山の大地震の後で、延々と連がる四、五階建ての住宅の間に土製の住居が出来ていた。何にするのかと聞いたら、地震があるといけないので、毎夜要心のためその土製の家に寝るのだという返事であった。 今は、もう、そんな土の住居など影も形もない。今回用事で尋ねた中国の会社の若い人たちは、北京の地下に壕があったことなど全く知らない人ばかりだった。もう埋めてあったのかしらない。 私の大学には、現在約四百人の中国人留学生が来ている。それを思い切って増やしたいので、大学のPRを兼ねて、事務局長などと北京の大学や斡旋業者を訪ねたのである。米国が一番志願者が多いようであるが、日本に留学を希望する人も決して少なくはない。大学の実態などのPRがまだまだ不十分なことがわかっただけでも訪ねて良かったと思っているが、何と言っても、しゃべれないが、漢字を見ればお互いに見当がつかぬでもない国との関係であるから、今後の日本の福祉などに携わって貰う中国の人たちが出来るだけ多くなることがお互いのためにもなるではないか、という思いをもって、これからも接触を続けて行きたいと考えている。読者諸賢如何に思われるか。 |