back 理事長 相沢英之 のメッセージ
       「地声寸言」
  2010.01.08リリース

第五十六回 <「これでいいのか二十二年度予算」>
 大蔵週報の毎週定期的発行がストップしてこの地声寸言もついつられるように不定期になっていたことは大へん申訳ないと思っている。それまで締切りに追われることもあって日曜の夜は数時間も呻吟することもあったが、その苦労がなくなったかのように気の緩んだことは不敏の致すところと恥じている。
 ところで今年最後の地声寸言として、やはり来年度予算を採り上げたい。雀百まで踊り忘れずというが、大蔵省で二十数年予算で暮らして来た私としては、年の暮ともなれば血が騒がずにはいられないのである。
 さて、政権交代となって民主党主導の予算編成となったが、まことに従前とは違う異様な編成過程であった。それがいいか悪いかは、後世の批判に俟つとして、取り敢えず私の感じたことをいくつか記してみたい。
 昭和三十年自由民主党が誕生し、鳩山内閣が成立した時、私は主計局の企画係主計官として総務課長の補佐的役割りをしていた。戦後昭和二十七年度までGHQの支配体制が継続していたが、その間予算の原案は主として大蔵省(主計局)が各省庁の要求を受けて作成し、GHQの承認(アプローバル)を得るという形で行われた。与党も含め政党の出る余地は殆んどなかったが、GHQの解消後、自主的な、いわば独立予算を組む意気ごみが徐々に高まって来た。昭和二十九、三十の両年度の予算について与党の手によってかなり修正が行われたが、これは日本の独立の一つの象徴とも考えられた。
 途中の経過を省略して述べれば、与党自民党の時代が途中短期間の野党時代を除き五十余年も続いたことになるが、その間与党の予算案審議体制も徐々に確立されて来た。
 すなわち、各省庁は各部会と直結をして与党の諸々の要求を吸い上げ、予算要求に反映させ、その後ろ楯のもとに大蔵省との折衝を繰り返し、次官折衝(相手は主として主計局次長)を経て、最終的に大臣折衝で予算原案を作成するというプロセスを経ていた。その間、党も各部会を中心に、諸々の調査会、委員会などの要求を取り纏め、大蔵省と折衝をし、最終的には大蔵原案を政策案議会、総務会で承認し、国会に提出するという形となっていた。
 従って、国会に提出された予算案は充分に与党において検討を加えられたものであったから、余程の事情の変更による手直しの外、まずは予算案を修正されることはなかった。
 ところが、民主党内閣となって、この予算編成のプロセスは大幅に変更されることになった。即ち、役所が各省要求額の査定案を作ることよりも、党三役による予算要求のチェック、仙谷由人行政刷新担当相の下でマスコミ陣はもとより一般人も含めた公開の場で不急不要と思われる予算要求をカットする、いわゆる要求の仕分けが行われ、必死の防戦をする各省の担当局部長の抵抗を排しつつ削減した要求額は約六九〇〇億円に及んだ(既に自民党時代に出されていた概算要求を基礎にして)。
 仕分けられ厳しい縮少に追い込まれた要求の中から、例えば大型科学研究費のごとく、囂々たる世の批判を受けてアッサリ復活するものもあって、関係者はよくわからないで一喜一憂する場面が少なからずあったという。
 ただ各項目一時間という限られた審議時間内で要求の内容について詳しく正確な知識を得られたか、どうかは不明であり、直ぐ役に立つか否かのような観点から仕切られれば、例えば文化芸術関係の要求などは切り込みに対して防戦が極めて難しいものとなってしまう。
 その上、何を仕分けの対象とするか、しないかについても、何となく諮意的な感じがなくもない。後で横串で同様な要求は中止又は縮少させると言っても、とても実効を期することは至難と思われた。
 それに一種の大衆討議で、しかも公開とくれば、勢い勇ましい意見の方が通り易く、仕分けの対象として採り上げられる項目は、とても無傷では済まないという結末となった。
 これからも、こういう方式を継続して、仕分けを続行するような話が与党内に既に出ているようである。仕分けそのものに反対という積りはないが、もう少し、ジックリ時間をかけ、要求の内容などについて充分に事情を聴取し、検討を行なうべきではないか、と思う。それに、そもそも仕分けとは何ぞや、法制上誰がどういう資格でどういう権限を持って行っているのか、それも明らかではない。もっとも、仕分け会議といっても事実上の審議機関で、単に政府に対して勧告権は持っているが、査定権はない、と認識せざるをえまい。この仕分け会議の結論は、いわば政府に対する与党側の意見として検討の際の考慮要件と考えておかないと、予算編成の手続に混乱を招かざるをえなくなる懼れがある。
 もう一つ言っておきたいのは、この予算案の性格である。現在わが国経済のデフレ基調はますます明らかになりつつある。従って、財政の大きな役割りとしてデフレ対策を実行すべきである。それなのに、十二月二十五日の閣議で了解された来年度の政府経済見通しでは国内総生産(GDP)の成長率は実質一・五%、名目0・四%に過ぎない。こんなことでいいのだろうかと思う。
 来年度一般会計の予算総額は九二兆二九九二億円となって過去最大である。それにも拘わらず、政府の見通しによるGDPはこの程度の低さであって物価は来年度も下落すると見ている。
 デフレ状態が継続し、失業者も増えているこの時期に求められる来年度の予算は少なくとも景気刺戦的なものであるべきである。
 それが経済に対して与えるインパクトが全く弱いのは、例えば景気に対して即効性のある公共事業費が十八%も減となっているせいもある。地方の単独事業に全く期待できない以上、現在既に往時の四割程度と言われる公共事業の規模は大幅に縮少せざるをえない。
 民主党のマニフェストで曲りなりにも実現された子ども手当、高校の実質無償化、農家の戸別所得補償、高速道路の無料化などいずれもこれによって国民経済上需要が増加する要因とはなり難い。いわばバラ撒かれた金は貯蓄に回ってしまう可能性が大きい。例えば子ども手当が貰えるようになったらどう使いますかと尋ねられた母親が、できるだけ貯金をして子どもが高校、大学へと進む時に備えたいと思いますと答えているのをテレビで見た。率直な意見だと思った。つまり、バラ撒かれた金が消費に向う可能性は乏しいのである。今求められている政策は国民の貯蓄を増やすことではなくて、消費を増やし、投資を拡大して、経済の活性化を図ることなのではないか。民主党の来年度の予算は、その意味で逆を向いて走っていると言わざるをえない。
 今朝のテレビで亀井大臣は公共事業をできるだけ前倒しして景気を刺激したいと言っていたが、少ない予算を前倒ししたら年度後半はそれこそ公共事業がガックリ減って景気に更にブレーキをかけることになるだけである。
 「コンクリートから人へ」の合言葉は悪いとは思わないが、現状ではコンクリートは景気対策になるが、人はならないのではないか。
 それこそ読者諸賢如何に思われるか。
 
 


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