back 理事長 相沢英之 のメッセージ
       「地声寸言」
  2009.07.23リリース

第四十五回 <「ムダな予算」>
 七月十二日の日経(朝)第一面の見出しに、「予算の無駄省庁別公表」、「来月末の概算要求から二〇〇〇~三〇〇〇億円減めざす」と記されていた。
 ムダな予算を計上する必要のないことは言うまでもない。私は、二十年以上も大蔵省主計局に勤務して予算査定に当っていた。当然、各省庁の要求に対して如何にムダな予算を切るかに努力して来た。
 ところで、実際の査定に当って、どの経費が要るか、要らないか、要るとしてどれだけの金額を認めるかという段になると、そう簡単にはいかない。まず、要るか、要らないかの判断である。
 例えば、私は、主計官として農林水産省の予算を四年間も担当してきた。当時、新しい農業基本法が制定され、農政の重点は米麦の増産から果樹・畜産への選択的拡大へと転換することになった。
 さて、この方針に従って、予算のどこの部分を削り、どこの部分を増やしていくかである。削る要求は殆んど出て来ないのに増やす予算は山程出てくる。各局各課各係として予算は事業執行のいわば生命と思っているから、必死である。出先の機関に対しては、もちろん、関係各県の農政を指導するにも予算がついていなくては空念仏に等しいと思われているからである。
 査定する側は朝から晩まで根をつめて如何にして予算要求を認め、或いは削るかを検討するとともに、それについて、認めるにしても、削るにしても要求側を説得しなければならない。徒らに、査定権を振り回して無理矢理に削っても折衝は結着しないし、仮に一応結着しても問題が先々に遺る。
 長年予算査定を担当して来て、つくづく思ったこともある。予算査定はらっきょうの皮むきみたいなところがあって、皮を剥き出したらどこまでも剥いてしまう怖れがある。で、そこをどこで止めておくか。妥当な線を見出さなければならない。それが大へんなので、査定する側としてもあらゆる努力をして資料も収集し、勉強もしなければならない。
 予算に増分主義という言葉がある。あれは予算の査定に当って、とかく前年度予算が基準となるので、それに対していくら増やし、いくら減らすかに議論が集中する怖れがある。各省庁の純粋な事務費予算などは標準予算としてとくに問題がなければ、細かい査定の積み上げを省いて認めることにしているが、こと事業費の予算となれば、当然存廃を含めて議論をすることになるが、假りに認めるにしてもどういう金額にするかの議論となる。
 昔ある人が、予算査定には査定官の世界観、人生観のかかわると言っていたが、譃ではないと思う。しかし同時に、査定官の個性が反映され過ぎても困るのである。
 同時に、予算査定はタイミングとバランスが大事であると言われている。本当に要らないと思われる予算要求は少なく、考えようによってはどの予算も認めたくなる。そこで重要なのは、果たして次年度予算に計上する必要があるか、ないかのタイミングの問題となる。そこで認めるとして、どれだけにするかとなると他の経費、或いは他の省庁の同様な経費とのバランスも問題となる。
 バランスについては、例えば、主計局内に統一査定単価という基準を設けている。例えば、アルバイトの賃銀について、もちろん作業の種類によっては当然差が出てくるが、軍純な事務補助的なものについては一時間いくら、という風に基準を設けておく。同じ霞ヶ関にあって、各省のアルバイトの単価に大きな差が出ないようにという配慮である。無論、予算としての積算単価であるから、実際にアルバイトに支払われる賃銀は雇われる人の年令、学歴、能力などによって差を生じるのは止むを得ないが、一応、予算単価としては足並みを揃えておくという考え方である。
 ところで、今回、予算の無駄を省庁別に公表するという話であるが、これは、各省庁が自ら実施した点検結果を公表させるだけでは上十分だから、財務省の予算執行調査も拡充し、経費も増額する、ことになっているようだ。各省庁の予算の使い方に関しては、当然会計検査院が毎年検査をし、結果を発表しているが、その中には予算の上正支出だけではなく上適切な支出、無駄な使出も指摘されている。
 よろしい、これらの調査を通じて無駄な予算となくすようにすることは当然であるが、同時に大切なことはその予算の効用について充分な検討と論議を持つことである。
 かつて私は、義務教育の教科書の無償給付について反対をし、天野文部大臣当時に実施した小学一年生の国語、算数の教科書の無償給付(いわゆるお年玉)を当時の文部省初等中等教育局の内藤誉三郎局長との協議し、その法律を廃止すると同時に準要保護児童生徒という概会を法定し、それに対して全教科書、学用品、修学旅行費にいたるまで補助する制度を創設したことがある。私は、年三、四千円の教科書代は父兄負担でいいし、無償給付のために必要なる年間何百億円の予算は義務教育の小中学校の校舎や設備の整備費の補助に切り替えた方がよいという発想であった。
 その後、義務教育無償の原則は教科書の無償給付にも及ぶべきであるという考え方が強くなって、遂に昭和三十八年その法律が成立し、今日に到っている。
 私は、今でも私たちの考え方が間違っていたと思っていない。
 予算が無駄か、無駄でないか、は例えばこういう問題についても、見方によって差がついてくるので、無駄な予算は削れ、という単純なスローガンであっさり凡の物事が決って行くようなものではない、ところに悩みがあると、思っているが、読者諸賢如何に思われるか。
 
 


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