back 理事長 相沢英之 のメッセージ
       「地声寸言」
  2009.06.24リリース

第四十四回 <「化粧と口笛など」>
 旧制一高で文学に耽溺していた私は、川端康成の『雪国』に触発され、次々に殆ど全作品を読んだが、中でも『化粧と口笛』は何故か気に入って十回ほど読んだ。彼の『浅草紅団』、『浅草の九官鳥』、『浅草の姉妹』、『浅草日記』などの浅草ものや踊子を扱った『虹』、『花のワルツ』などに繋がる作品だと思うが、『化粧と口笛』の主人公は西尾という西洋舞踊の先生である。その荒筋でもご紹介したいが、是非読んでいただきたいと思うので省略する。
 川端が西洋舞踊に何か愛着を持っていたのではないかと思われるのは、かの『雪国』の主人公が親譲りの財産で無為徒食しながら西洋舞踊の紹介などをしている島村という男であるからである。
 私は、一高で川端の二十年後輩に当るので、何かと親しみを感じていたが、文芸部の仲間二人が鎌倉のお宅を訪ねた時、じっと二時間程の間、あのふくろうのような眼でじっと見つめたまま一言も口をきかなかったので、冷汗をかいて早々に退出したという話を聞き、何となくわかる気もしたのである。彼の作品を貫く一種冷徹な心の働らきがそうさせるのだろうと思った。
 後年、彼がよく利用していた紀尾井町の福田屋のゆき子という仲居が銀座でクラブを聞いた時、「ゆきさん」という店の名前をつけ、その名を色紙に書いて渡したという。開店の日、私達一高の後輩どもが数人その店に押しかけたところ、その色紙を掲げた壁の下に川端は黙って例の眼でじっと坐っていた。無作法なわれわれが先輩々々と呼びかけグラスをもって寄って行くのに嫌な顔もされずにいたし、ふっと暖かい雰囲気は感じていた。もっとも、二、三十分後にはサッと消えてそれきり現われなかった。
 一高の校友会雑誌は文芸部が編輯をしていたが、その昔は芥川龍之介、久米正雄、芹沢光治良、高見順など先輩が書いていたし、三年生には、小島信夫、中村真一郎、川俣晃自、二年生には加藤などが活躍していた。川端は「ちょ」という小品を載せている。「ちょ」は実名で、川端さんが後に結婚しようとした人であるという。
 私は、寄宿寮の新聞「向陵時報」の編輯長をし、「西伊豆の酒」、「紙人形」などの小篇を発表していたが、校友会雑誌にも「港の風」、「無為の霧」、「生活の悦び」の三篇が掲載された。
 川端さんの『伊豆の踊子』の主人公は川端本人だと思われるが、私達も伊豆に憧れて、伊豆の踊子のルートを辿り、修善寺、嵯峨沢、湯ヶ島、天城峠、湯ヶ野、下田と下駄履きで歩いた。わさび田の清洌な水に手をひたしたり、浄蓮の滝の飛瀑を浴びたり、暑い夏の旅であった。下田から東海汽船の船で霊岸島へ。
 丁度その頃、『伊豆の踊子』の映画化が計画され、映画会社から主人公の学生に一高の三つ柏とオリーブの実の正帽を使っていいか打診があった。寮の委員会で検討したが、そのままに使って欲しくない旨を回答した。映画では似た帽章になっていた。
 川端の浅草ものに刺戟され私たち一高の仲間も浅草の六区に度々出入りし、カジノフォーリーを見たりした。ある時はオペラ館の楽屋口で踊り子達の出てくるのを俟って下足番の爺さんにとがめられたりした。踊り子たちと友達になりたかったのである。
 浅草には下町の、例えば焼そばのソースが似合う、何とはなしの安らぎが漂っていた。瓢箪池は健在で、周りの空地ではガマの油やら啖呵売などが見飽きなかった。十二階は大震災で消えて了ったが、何といっても浅草は懐しい街であった。
 『雪国』を初めて読んだのは高校二年生の時であったか。読んでわかったつもりのところどころの文章の意味が実は何もわかっていないことを年を数えて知るようになった。駒子のモデルがあるなしは問題ではない。葉子も悲しい程美しい声の存在だけでいい。舞台は湯沢で高半ホテルであるという。旅行で泊ったこともある。駒子の部屋も見た。丁度、雪の頃であった。小説にあるような天に向って伸びる杉小立の中に佇み、ただ徒労と知りつつも島村の部屋に通う駒子の心を思った。
 川端の作品では浅草ものにつづいて『童謡』、『夕映え少女』、『抒情歌』、『禽獣』などが記憶に残る。
 川端は志賀直哉の後を受けて日本ペンクラブの会長になってから、昭和三十二年の東京での国際ペンクラブ大会(第二十九回)の開会に当っては自ら随分盡力したし、国もこの種の国際大会には初めて補助をすることにした(当時、私は、文部省担当の主計官であった。)。世俗を離れていると見られていた川端には思いがけない力の入れ方であった。
 彼に師事していた私の知人北条誠の娘が結婚した時は、短かいながら心のこもった祝詞を述べたと誠からも聞いた。
 川端は、その間、『名人』、『千羽鶴』、『山の音』、『舞姫』、『東京の人』、『眠れる美女』、『古都』などの数多くの作品を世に送った。芸術院賞受賞、芸術院会員推挙、文化勲章受章と続き、さらに、日本人として初めてノーベル文学賞を受賞するという栄誉を担ったが、さて、私は、どちらかと言えば、浅草もの、『伊豆の踊子』、『雪国』あたりの川端の方が何故か少なくとも親しみを覚えてならない。
 『化粧と口笛』は彼の作品の中でも余り言あげされないが、私は、本当に彼らしい作品であると今でも思っている。
 昭和四十七年四月十六日夜、彼はガス自殺をとげた。惜しい人をなくした思いと何となく彼にふさわしい死に方のようにも思えるのは錯覚であろうか。読者諸賢如何に思われるか。
 
 


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