back 理事長 相沢英之 のメッセージ
       「地声寸言」
  2008.07.25 リリース

第十二回 <米の有難味>
 銀しゃりを腹一杯食ってみたい、というのは、今頃の若い人には全然わかって貰えないが、戦中・戦後の、それこそ食糧難の頃に育った年代の人達には実感をもって言える言葉であった。戦後、ソ連に抑留され、三年間も籾殻入りのすっぱい黒パンを食べさせられた私達が、すこしの暇に蚕棚のような板のベットに寝転って繰り返す昔話のオチは、いつもそこであった。
 銀しゃりとは、言うまでもなく白い米の飯のことである。
 しゃりは漢字で書くと舎利である。小学館の日本国語大辞典から抜き書きしてみる。「舎利、梵語でSARIRAの音訳」。「@仏語。遺骨、普通、聖者の遺骨、特に仏陀の遺骨をいう。仏舎利。さり。」
 この仏陀の遺骨は細かく砕かれ、小豆大くらいの粉粒で、槌をもってしても破砕できないとされていた。この仏舎利は、仏陀の死後、アショカ王によって分配されて各地に伝わり、舎利塔に安置して信仰の対象とされた。ただし、実際には、宝石類や真珠などが用いられたらしい。日本にも鑑真が三千粒將来  したとされ、空海は八十粒を感得したという。
 以上は本来の意味であるが、舎利の形が米に似ているところから、米粒、米、または白飯を舎利と言うようになった。
 私は、昔、米を舎利と呼ぶようになったのは、網走監獄で囚人が言い初めたと聞かされていたが、どうも上記の国語大辞典には記されていないから、多分、間違いであろう。
 それが証拠には、仏舎利と米粒とを結び付ける発想は中国唐代にも既に見られているし、日本でも空海撰「秘蔵記上」にも同じ趣旨の記述が見えるという。
 こんなことを、そう長々と書く必要はなかったのかもしれないが、何らかの参考にと思って敢えて引用しておいた。
 ところで、戦中・戦後あれ程憧れた米の飯であるが、乏しい配給ではとても耐えられない。田舎へ、田舎へと買出し部隊が汽車に乗って繰り出し、大事な着物などと交換してやっと手に入れたヤミ米が帰りの満員列車を止めての警察の取締り、没収。嫌な時代だったね。
 戦争中、戦地の中支にいた私は、米こそ毎日食べていたが、この米は日本米と違って長粒子。ねばり気もない、一口にして言えばうまくない。昭和十九年に武昌の南、咸寧の旅団司令部に勤務の頃、野戦倉庫の米は昭和十三年日支事変の頃の米。幸い籾であったから、精白すれば食べられたが、牛の牽く石臼で籾摺りをするので、石の細かい粉が混ってくる。大きな丼に山盛りに盛られた御飯は一口噛むとガリガリ、ジャリジャリ。初めは、できるだけ上下の歯を合わさないように噛んで、飲み込んでいたが、その後お茶をかけることを思いついた。お茶をかけて箸でぐるぐる回すと砂が米粒を離れて、丼の下に沈む。それが小匙一杯も溜まるという状態であった。それに味噌汁。これが又、昭和十三年もので、内地で作った乾燥味噌。嫌いな赤だしの粉味噌に朝、昼、晩と冬瓜の実。今でも冬瓜は嫌いだが、それはこの咸寧のことを思い出すからである。
 ソ連抑留時代は無論お米に縁はなかったが、カザンの監獄に全く身に覚えのない戦犯容疑で四ヶ月も抛り込まれた時は、乾した牛肉の大きな塊に、なんと白い飯が山盛り。これは、殺される前の食事かと大いに悩んだものである。
 昭和二十三年八月十四日、舞鶴上陸。懐かしい内地に帰還して、さて、こそ銀しゃりにありつけるか、と思ったら、厳しい配給の継続。大根を刻んで混ぜた米の飯が精一杯の御馳走であった。
 それが、正に喉元過ぎれば暑さ忘れるというか、それにも似て、今や銀しゃりなどいう言葉が何処へ行ってしまったかと思えるような、米の過剰時代。
 昭和三十年代の半頃、四年間にわたる農林担当の主計官で、激しい米価闘争を体験した。
 夏の米価審議会は長い時は十日間も連日開かれた。米作農家にも都市の勤労者なみの労働報酬を保証するという掛声で米価算定の細かい項目について、果てしない議論が繰り返されていたが、財政負担の問題もあって、中々結論が出ない。麹町三番町の農林省の分庁舎を三千人もの農民代表が取り巻き、審議会の委員のボタンを引きちぎり、上着を破ったりするような熱気は、今から思えば嘘のような激しさであった。
 他面、農政は大転換しつつあった。米麦の増産中心から果樹、畜産の選択的拡大へと農政の転換が昭和三十六年の農業基本法に唱われるようになった。米価を積極的に引き上げるような姿勢でないのは無論であった。
 新規開田、田畑転換や旧田補水などおよそ米の増産に繋がるような新規の土地改良事業は今後一切採択しないと宣言して歩いた相沢主計官のせいで、北海道で代議士二人が落選した、相沢を罷免しろと自民党の農林部会の面々が主計局長室に怒鳴り込んで来たのもその頃であった。
 米は確かに余りつつあった。減反で生産を抑えても消費が大幅に減ったため、繰越米が急増し、古々米の処分に又財政負担を強いられるような情勢になっていた。
 主計局次長であった私が、檜垣食糧庁長官と自主流通米の制度を農協サイドの強い反対を抑えて導入を決定したのは昭和四十四年であった。
 時は移り、日本の食糧事情も大きく変わって来た。戦前は一人当たり食べる米が、年一石(一五〇kg)と言われたが、今や半分以下の四斗(六〇kg)なっている。しかし、日本人の長寿と思い重ねられてか、健康食の和食がそれこそ世界的に普及するにつれて、日本米の輸出も増加しつつあるようだ。魚の消費も増え、資源小国の日本は和食の拡大をただ喜んでいる訳には行かなくなってきたが、とにかく、米の輸出が増え、しかもいい値で売れるようになれば、日本の米作農家も助かるし、又、米以外の作物も含めて、日本農業の新しい目標が見えてくるようになれば、大へん結構なことであると喜んでいる。読者諸賢如何に思われるか。
 


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