back 理事長 相沢英之 のメッセージ
       「地声寸言」
  2008.05.29 リリース

第七回 <メーデーに思う>
 長生きをするといろいろなことを経験する。五月一日、メーデーの日を迎えて、いくつかの思い出を語ってみたい。
 そもそもメーデーとは何ぞや。直訳すれば五月の日であるが、世界各地で毎年五月一日に行わされ労働者の祭典である。一八八六年五月一日に合衆国カナダ職能労働組合連盟(後のアメリカ労働総同盟)がシカゴを中心に八時間労働制を要求するデモンストレーションを行ったのが起源であるという。一八八九年に第二インターナショナル創立大会で翌年五月一日を八時間労働実現のためのデモを行うことが決議され、当日、ヨーロッパ各国やアメリカなどで第一回国際メーデーが実行された。
 日本では、大正九年(一九二〇年)五月二日(日曜日)に第一回のメーデーが上野公園で開かれ、翌年から五月一日となり、開催地や参加人数が増えていった。
 私は、小学校も中学校も横浜で通っていた。昭和の一ケタ頃メーデーの日に、横浜公園の傍を通ったら、何百人かの労働者が赤旗を掲げ、インター・ナショナルの歌を唱って行進をしていた。その行列の両脇をこれまた何百人もの警官が帽子の顎紐をかけ、腰につったサーベルを光らせながら両側から取り巻くようにして一緒に歩いていたことを思い出す。
 私は、十かそこらでなかったろうか。その行進を沿道を見ている人達から小さな声で「アカだ、アカだ」という声が上がっていた。子供心に何か悪いことをしている人達の行進だという印象を受けた。
 アカとは共産党員か何かのことで、とにかく悪い思想をもった人達のことを指して言うぐらいの知識であった。
 昭和六年の満州事変に始まり、昭和十二年の日支事変、昭和十六年の大東亜戦争と日本全体が軍事色に塗り潰されて行った。メーデーも昭和十一年以来開催されなくなった。
 私は、昭和十七年九月大学を半年繰り上げで卒業すると同時に大蔵省に入り、七日間分の月給を貰って十月一日から六年、軍務に服し、後半三年はソ連に抑留されていた。
 さて、そのソ連のラーゲルにいる間に三度メーデーを迎えたわけである。プロレタリアートと農民の国という掛け声でスタートしてソ連では、当然のことながら、メーデーは戦後、大きなお祭りの日となっていた。
 よく、シベリアのラーゲルでの民主化運動の凄まじさが新聞の記事にもなっていた。「暁に祈る」という言葉も報道した。事実、シベリアのラーゲルによっては、民主化運動の行き過ぎが、将校などを吊し上げ、何人も死に到らしめるようなことが行われたらしい。らしいというのは、私どもは事実を確認していないからであるが、想像は出来なくもない。
 私が二年半余りいたエラブガの収容所は、A・B合せて一万人も抑留されていたが、大部分は将校であって、いわゆる将校収容所であり、モスクワ直轄といわれた管理局も置かれていた。
 日本人部長と呼ばれるソ連の軍人もいて、いわゆるラーゲルの民主化運動のため日本人クラブというような組織も作られていた。われわれの先住民族として、前年スターリン・グラードで白旗を掲げて降伏をしたドイツ将校の捕虜がいた。ソ連側の取り扱いはわれわれ日本人抑留者も捕虜となっていた。終戦となって武器弾薬その他をリストを作って引き渡したわれわれが戦時捕虜と呼ばれるわけがないという主張で収容された当初、ソ連側とやりとりをしたが、ソ連側が見解を変えることはなかった。
 ところで、私どもが学生時代は東大の新人会などが有ったころで、マル・エヌ(マルクス・エンゲルスのこと)系統の本は発刊も売買も禁止されていた。大学のM教授もマルクス経済学者と見られていたが、経済原論の講義は口述筆記で著書は出ていなかった。しかし、禁じられるとなると却って見たいもので、横浜の古本屋の親爺と仲よしになっていた私は、資本論を始め、その系統の本を本箱一つ一杯になるまで秘かに買い溜めていた。昭和一九年主計将校として北京に赴任する時、その本箱を封印するとともに、何かあったら焼却してくれるように父親に頼んでおいたが、二十年の三月の大空襲で家が全焼したので、無論その本箱も焼けて了った。
 私どのラーゲルには学徒動員で幹候(幹部候補生)上がりの将校が多かったし、少し生活が落ち着くにつれて、学習欲が強くなって来た。ドイツ軍捕虜のための図書室にはマルエヌ全集なども揃っていた。
 私は、仲間にそそのかされて共産党宣言(コムニスデン・マニフェスト)の訳を始め、友人の持っていた独和辞典を頼りにとにかく仕上げて、読書会も開くにいたった。
 薄暗い裸電球の灯る部屋には思いがけなく多数の人が座る場所もないくらいに詰めかけて来た。曲がりなりにも解説をした私にお礼の言葉があって恐縮した。
 次は、資本論の翻訳をと仲間で分担して始め、私は、剰余価値学説史を受け持ったが猛烈に多い脚注に悩んだりして足踏みしているうちに、仲間もろとも挫折して了った。所詮無理な試みと言わざるをえなかった。
 ところで、ラーゲルでのメーデーは、とくにソ連側からは指導や命令というようなものはなかったが、お祭りをすることになって、インター・ナショナルの練習をし、当日、雪の残る庭を肩を組んで歌を唱ってデモンストレーションをした。何か一寸昂揚した気分であったが、別に労働者になったような思いでもなかった。
 二十三年の夏、ダモイトーキョーを果たして大蔵省に復帰した翌年の五月のメーデーのことは今も思い出す。当時仮庁舎のあった四谷小学校の傍の四谷公園は赤旗で埋まり。絶えずインター・ナショナルの歌が高らかに鳴り響いていた。その頃は、確かに全国的に大規模で展開されていた労働者の祭典であったし、その日は休日とはなっていなかったが、事実上は少なくとも半日は休みのようなものであった。
 それから星霜五十年、メーデーは形骸化し、労働者の祭典という言葉の響きとは程遠い存在となった。ゴールデンウィークとのからみや、労働組合運動の低調化から参加数は減少し、その上、全国組織の対立に伴い分裂開催が定着したため、参加者の数も昔に比べれば激減してきた。
 それでも、労働者の団体組合としては、止めるわけには行かない、という現状であろう。
 第一、インターナショナルの歌の冒頭、「立て飢えたる者よ、今ぞ日は近し・・・」などいう文句はおよそ実感は乏しいのではないか。と思うのはいかがか、読者諸賢如何に思われるか。
 


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