back 代表理事 相澤英之 のメッセージ
       「地声寸言」
  2015.10.28リリース

第二百十九回 <庭>
 猫の額ほどの狭いものにもせよ一応庭のある家に住んで来たので、朝起きて、窓を開け、せい一パイ息を吸い込んで、手足ののびをする、という癖がついている。
 今の家の庭は家内が花が大好きときているし、殆んど一年中何かの花が咲いている。区の保存木となっている桜の木が四本あって、二年に一度は区から植木屋が手入れにやってくる。有難いものである。
 冬が春に替わると、杏の木の葉で一面がうす緑で明るくなる。若葉の緑は陽にすけると本当に美しい。家の中からだけでなく、時には庭に下りて、カメラをあちこちに向けてみる。毎日見ても、少しづつ変化をしているもので、角度も変えてシャッターを切る。デジカメで気楽に映していると、つい何百枚も映像が出来上がる。コピー機で印刷紙にやきつけてみるが、発色は難しいものでなかなかいい色が出ない。つい溜ったものを写真屋へ持って行くが、安くはない。
 以前は勿論フィルムであるが、どうしても焼きつけた絵の色が何年か経つうちに退色してしまう。しかし、デジカメだって同様なものだと専門家にいわれて、さて、と考えこんでしまう。
 それはともかくとして春から夏にかけて色増して来た緑が一日一日色が深くなって、やがて、散って風に舞うようになる。
 多い時はやかましい位の鳥の声も聞こえなくなり、うるさかった蝉の声も日暮らしの細い声となり、それも消えようになってくると庭に枯葉が風に舞うようになる。
 鳥は敏感なもので、家の中でしゃべっている声もキャッチする。カメラのシャッタ―音もわかるらしい。もう南へ飛ぶ頃かなと思っていると、木の葉の間にチラチラしていた鳥の姿が見えなくなってくる。
 大体、仲の悪い鳥もあるようだし、いつもつがいでいた鳥が一羽だけになって淋しそうなのもある。段々と上手になって来たウグイスの鳴き声もなかなか長続きはしない。
 チョッとした木の台を作って、柿や林檎の皮などを置いておくと、暫らくは、数羽も集っているが、やはり好き嫌いはあって、腐って、干からびた皮のかけらを残していることもある。木の枝になっている実をつっつく方がおいしいらしい。穴のあいた杏や蜜柑が地面に転っていることも多い。
 時に青空を飛行機が白い雲を曳いて飛んで行く。高いところからか、音もないようだ。ごくたまにヘリコプターが二、三機、空気をふるわせることがある。又、何か事故かな、と思う。新聞社などのヘリが飛ぶ時は、大抵ろくなことはない。
 狭い庭の上の空間であるが、雲の流れるのを眺め、テレビのアンテナにとまっている鳥の姿を見たり、これで時のたつのを忘れることがある。
 家にはジャックラッセルが一匹いた。皆に可愛がられていたが、今年の初め一四才で亡くなった。暫らくは淋しくて、ふいと何処からか出てきそうな気がしていたが、それも忘れるようになった。
 何匹かったか。何代となるのか。生きものはこれだから嫌だと言って、数年経って又飼ったりする。
 家内は外出から歸ると花、犬、人間の順である。アラ、いたの、といったような顔をすることもある。失敬なと思ったのは昔である。
 もっとも、犬がいなくなったから、先ず花、次に人になった。しかし、今度は、次の犬を飼うと、という話はまだ出ない。
 ジャックラッセルの骨箱は、多摩の犬の墓に入らず、まだ白木の机の上に置かれている。
 
 


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