back 代表理事 相澤英之 のメッセージ
       「地声寸言」
  2015.08.11リリース

第二百十八回 <リビア>
 リビアのことについて書き残しておこうと思いながら、果していなかった。これから書くことも、ただ記憶一本にョっているに過ぎないので、随分と不正確なことは勿論、間違いも多いと自分でもよく承知しているが、後日補正するとして、とにかく記録しておくことにしたことをお許しいただきたい。
 北アフリカ北部の一角を「リビア」という国が占めていることは知らないでもなかったが、その国に視察に行くことになろうとは、思ってもみなかった。
 備忘録のような意味で、いくつか記憶に残っていることを記してみることにする。リビアは、その名からしても、イタリア系の国であって、関心を引くこともなかったが、私の友人が長いことー三十年近いと聞いているーリビアと関係を保っており、近くリビアのカダフィの親族が日本にくる、というので誘われるまゝに会ってみる気になったのである。
 来るという人は、かの有名なカダフィの第二夫人との間の次男で、三十才をちょっと出た若い男だが、カダフィの後継者と言われていたサイフ・アル・イスラム・ガダフィであった。カダフィやらカタフィやら言われるが、どうも自国語で言うとガダフィが正しいらしい。
 私がリビアに関心を持ったのは、この国は世界第四位の石油埋蔵量を持っていると言われていた上、二十年間も内乱が続いていたので、これから採油事業が盛んになると思われるので、日本も見逃すことのできない国ではないか、と思ったからである。
 しかし、リビアに長いこと事業で働いていたKという男がたまたまわれわれと同じロータリーの仲間である、という触れ込みであり、リビアの現地での調査に必要な資金もリビア側で負担をするという、今から考えれば大へん割いい条件であったので、いそがしかったが、時間を裂いてととりかかろうということになった。
 サイフ・カダフィが来て、一週間ほどの滞在の間に関係閣僚などにも会いたいというので、私の事務所も中心となっていろいろな準備を手伝うことになった。
 時間の関係で総理には引き合わせられなかったが、関係閣僚、衆議院議長などにも引き合わせ、食事の会などの設定もし、こちらとしてはできるだけの接遇を果たしたつもりであった。
 アラブの人はアルコールを飲まない。それなのに晝間の会で、サイフにちょっと味実をさせたりした。
 サイフは絵が好きで、自分でも画家と称して、展示できるぐらいの量の作品を持って来ていたので、その会を聞くことも企画にいれてやった。
 サイフ側に予めわれわれをだましてやろうなどという悪だくみがあったとは、今でも思えない。
 リビアの広大な石油鉱区(メッシュ状に仕切った)ごとに入札を行っていたが、それに日本からも参加できるように、又、地中海方面での遺蹟調査に日本も実績を挙げているので、リビアに存在する古代ローマの遺跡、例えば、トリポリ、レプティスマグナ、ベンガジなど三ヶ所についても是非日本側の調査の力を借りたい。又、地中海は有力な鮪など漁場であるが、残念ながら漁船が不足している、できれば有力な船二隻ぐらい調達できないか、というような話が、石油採掘の話の外に次々に提示されたのである。
 正直言って、われわれが馴れていなかったせいもあったし、これらの事業と日本のODAなど海外援助計画との関連をもっとよく調査すべきであった、と思う。しかし、初手からサイフのようなしかるべき人物が関与し、日本のしかるべき人物にも引き合わせていたし、又、リビアはそれまでの海外援助のスケジュールに載せていない国であったし、日本側どころではなく米国側もかなり本気で取り組んでいたことの気迫も感じられていたので、私も、トリポリでは連日関係者との忙しい会合の日々を送っていた。
 サイフは三十をちょっと出たぐらいの若い男であったが、それなりの貫禄を持っていた。
 ただ、最初、招かれてトリポリに出かけた時はオペック石油の会合に出席しているので、ウィーンに来てくれないが、という話であったが、これが変更になってロンドンで会いたいと言うので、その積りにしていたら、ロンドンについた日の九時過ぎ急に会いたい、と言って来たり、正直言って、勝手なことを言いやがるとも思ったが、石油の利権のこともあるので、仕方なく、Kとホテルに出かけたりした。
 こういう交渉に私も馴れてなかったし、何とか成果が上がればと思って、労をいとわず行動した。世の中、物を持っている方が強い、その一端に割り込もうと思えば、それなりの苦労もあると思った。
 リビアにローマの遺跡があるとは、初めは知らなかったが、半日かかって見に行ったレプティスマグナの遺跡などはなかなか立派なもので、アンフィシアターなどはそう痛んでもいなかったし、イタリア辺に散存するローマの遺跡と較べても見おとりしないと思った、小さい石を記念に一つ持って来た。
 調査をローマで実施しているという西村教授(当時京大)に頼んだら、自分は別の箇所をやっているので、京大の然るべき人に頼んであげるというので、お願いすることにした、半分海に突っ込んでいる遺跡もあったが、調査はその後どうなっているだろうか、気になっているところである。
 リビアについては、カダフィが射殺され、サイフも降伏した、と記事でみて以来、どうなっているのか、よく知らない。何かいろいろ動きがあるようだ。
 も一つ、つけ加えておくと、旧体制が健在の頃、リビアの中央銀行の建物を新築したいという話があり、黒川紀章を建設家として推薦したら、彼も大へん喜んでいた、その後都知事選に出馬して破れたりした上に、リビアの体制もダメになったので、彼の作品も実現しなかった。
 あゝいう人は芸術家で、事務家でないと思ったのは、彼が亡くなってから暫くして、事務所の人から二億円(?)もするようなモーターボートを紀章さんが発注していた、それが日本に向っている、そのうち着くらしいが、どうしたらいいか、と聞かれた。そんなことを知るか、と言いたいところだったが、この船は三隻目だということ、まだ金は払っていないことはわかった。芸術家の扱いは、なかなか大へんである。もっとも、そこでおもしろいのかも知れない。
 
 


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