back 代表理事 相澤英之 のメッセージ
       「地声寸言」
  2015.07.09リリース

第二百十七回 <勝敗>
 もう戦争が終って七〇年にもなる。本当か、ウソかわからないが、日本はアメリカと戦争をしたんだって、と父親に聞く少年もいるという。本当かもしれない、と思うこともある。
 バカだな、あのアメリカと戦って勝てると思っていたのだろうか。と言われる。山本連合艦隊司令長官は一年は戦って見せますと明言したという。一年以上長びいたら、ダメだという意味を言外に含めての発言だと聞いている。
 私達、学徒動員で軍隊に送り込まれたような仲間の意見は、本当に勝てると思っていた、とは思えない。しかし、戦争ははじまって、どんどん大陸から南方に拡大して行く。いい加減のところで止めにしないかな、というのが、正直な気持ちではなかったか。
 私は、主計将校として、専ら軍司令部で物資の収買に当たっていた。何でも買えるものは買え、金に糸目はつけないと、昭和十九年、終戦の前の年に、中支の戦線に視察にやってきた大本営参謀がわれわれに語っていた。
 われわれもそれとなく戦況は察していた。ことに昭和二十年一月フィリピンのマニラが陷落した、という噂が流れて来てからは、何時終戦にするだろうか、と情報のかけらを追っていた。
 二十年の春には、私が属していた第三十四軍は籠城を覚悟してできるだけの糧秣を集積してくれ。前方の第十一軍、第二十軍の将兵を遂次下流に引き揚げ、それが完了したら、第三十四軍も下流に下って行く、という計画だと聞かされた。米雜穀の収買、蓄積に力を入れよという、命令があったと思ったら、今度は、三十四軍の司令部はハルビンに移駐せよ、という使令を受けた。当時は米軍が次にどこへ上陸してくるだろうか、が話題であって、われわれへの命令から察すると、大本営は朝鮮に米軍が上陸してくるという判断だと思った。それにしてもハルビンとは少し遠すぎやしないか、と思っていた。
 軍司令部は三梯団に分かれて移動を開始していた。私は、第二梯団であった。粤漢線は米軍の爆撃を受けて目茶苦茶になっていた。鉄橋が爆破されていたので、河は、褌一つになって、荷物を担いで渡るような始末。一番重いのが、和文タイプライターの鉛活字で、これを運ぶのは容易ではなかった。
 河を渡っている最中に米軍の戦闘機が襲いかかってくる。われわれは荷物をほうり出して逃げて行くのだが、ゆきはよいよい、夢中で走るから痛みも感じないが、空襲が済んで戻る時は、身体中カスリ傷でヒリヒリしてたまらない。それでも弾に当たらなかった奴は運がよかった、と言われなければならない。
 広大な支那を占領しているといい条、本当に抑えているのは、ほんのポイント・アンド・ラインであって、ポイントの駅すらゲリラが々襲ってくるという状態であった。空と海が支配されているので、南方の資源を本土に送るには大陸の鉄道路線を確保しなければならない、粤漢打通作戦の重要性は充分に知ってはいたが、肝心なその路線に貼っている軍も引き揚げてくるようでは、全く、作戦の意味もないではないか、と毎晩まずい合成酒を飲んでは、酔って、湖南進軍譜などを唱っていた。歌も覚えた、踊りも覚えた。それでも、若いだけに、やけくそにならず、毎日の仕事は陽が沈むまで一生懸命に務めていた。
 それでも、二十年の六月には、武漢地方の在留邦人にも家族は出来るだけ内地へ引き揚げるようという勧告が出ていた。武漢地方だけでも、商社マンが三千人もいた。呂武集団の袖章も初めは皆嫌がって付けなかったが、その中に皆つけるようになった。軍に関係している、ということがわかって飲みに行ってももてるからである。単純なものである。袖章には帆のついたジャンクの船影が書かれていた。
 米軍機は柳州、桂林などから毎日飛んで来た。専ら夜襲であったが、二十年に入ってからは、漢口にいた第五航空軍の司令部が朝鮮の平壌に移ったこともあって、米軍に抵抗できる飛行機は一機もないことがわかって、撃墜される心配がないと思ったのか、米軍機は昼間ゆうゆうと飛んで来て正確に爆弾を投下するようになった。私が苦心して集めたミシン五〇台で縫った袋もかなり倉庫に集積した頃を見計らって爆破されるという悲運に遭う始末だった。物資も集積した頃に爆破、弾薬も然り。そんな時に下流から戦勝の乾杯用にとビールが三十万本着いた、という知らせ。前戦は、それどころか弾丸が欲しい。こんなものを送ったら皆が腹をたてるから、ビールは駐屯軍の腹に入れたらいいということになった。
 漢口の街は暑かった。誰かが、漢口は世界三大不健康地の一つだと聞いて来た。そうかも知れない。アスファルトの舗装が真夏の太陽の熱で焼けている。防暑帽に半袖シャツ、短パンという軽装でも一寸歩くと汗だらけになる。汗をかくと言うようなものではない、汗が肩から腕、腕から指先にかけてまるで水を浴びたように流れる。焼けた雀が落ちてくるという。落雀の候と昔から言われるのは嘘ではない。何度になるかわからないが、屋根瓦で卵が焼けるか、どうかのカケをした。焼けそうな気もしたが、このカケは失敗であった。卵は流れてしまった。それにしても暑い。
 それよりも街の人々の間には日本軍はもう街から撤退する、という噂が流れて、われわれの神経をイラつかせた。そんなことは絶体にないと、ボーイに言っても、そうでしょうね、と言いながらも、われわれの言葉を信用していない眼の色である。私は、前の御主人(イギリス人)以来何十年も勤めてきたけれど、今度はもう辞めさせて貰いたい、とコックのチーフが頭を下げたと言うではないか。辞めてどうするの、と聞けば、湖南の故郷の街の名を言って、そこに老親もまだ生きているから、帰りたい、と言う。どうも嘘っぽいとは思うものの、耳に入ってくる街の噂は、そんなもので、早くも、あちこちで会社の運転手やら何やら、使用人が辞めた、という話が伝わってくる。
 江漢路には日本人の店が多い。その辺を歩いている限りは、そんな気はしないが、何となくわれわれを見る眼に不安の色が浮かんでいる。六〇万人という人口抱えた武漢三鎭は揚子江中流の大都市ではあるが、日本軍の前線の基地でもあった。
 南昌への鉄道は国民政府軍によって枕木ごと外されて了ったので、それを粤漢線の復旧に利用しようという軍の計画は錯誤頓挫してしまっていた。レールは何とか確保できそうであっても、枕木がなければ汽車は走れない。遂に兵力伐採を決意し、三十万本の枕木の原木を切り出すことになった。上流で切った木は揚子江で流してくる。通常は筏を組んで、その上に粗末な家を建て、畑もつくり豚や鶏を飼いながら大河を下ってくるのであるが、そんなにのんびりしているわけにはゆかない。
 今でも思い出す。十二月三十一日の夜、明日はいよいよ正月だと言いながら例によって車座になって豚スキで酒を飲んでいたら、筏の網が切れて流れ出したという。渇水期で水の流れは三ノットを越している。それは大へんだとスキ焼鍋をほっといて、バンドにかけつけ、ボートを出して、流れる筏を追いかけたが、広い揚子江のこと、なかなか、全部は回収不可能であった。雨しぶきの中、ビュンビュン吹きつける風の中の奪斗であった。
 兵力伐採は何ヵ月も続き、三十万本の枕木が集積されたか、どうかは、私は知る由もなかった。六月末、急遽三十四軍司令部はハルビンに移駐するように命令されたからである。調弁科はそのまゝ第六方面軍に引きつがれることになったが、ひとり私は、経理部長にお伴してハルビンに行くような段取りとなった。
 繰り返すようだが、制空権を失った軍は無力と言うしかないし、内地から陸続として送られてくる部隊も化繊などの軍服を身にして兵隊の恰好はしているものの今更と言いたい古ぼけた三八式の歩兵銃を、しかも何人に一挺しか持たないようでは、戦闘能力はなかった。訓練もろくに受けていないから、米軍の空襲があっても、ボンヤリ空を見上げているような、まるで殺されるために内地から送られてきたような、全くあわれな存在であった。何で、こんなバカげた戦争を継続しているのか、一刻も早く戦いを止めて欲しい、と口には出さないが、本当に皆そう思ったのではないか。
 
 


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