back 代表理事 相澤英之 のメッセージ
       「地声寸言」
  2015.04.10リリース

第二百回 <公共事業と鳥取県>
 田中総理の列島改造については今でも賛成と反対の声が分かれている。私は、田中総理が列島改造を言い出した頃主計局長をしていただけに大きな関心をもっていた。
 選挙区の山陰地方は高速道路や新幹線んどの建設において大へん遅れていただけに列島改造の考え方は基本的に賛成であった。
 と言うより、私自身がこういういわば大部屋を拡げることが本来好きなのかも知れない。
 列島改造論を改めて読み返してみるまでもなく、これは山ばかりで起伏の大きく平野に恵まれていない日本列島の公共事業を中心とする物理的、土木的な改造が中心である、と荒っぽく定義することが出来るであろう。何をするにも人と物の流れをすみやかに時間とお金をかけないように出来るようにしなければならなるまい。
 新幹線と高速道路を日本列島中に張り回すことはそのためなすべき事業の第一歩であり、最終歩ではないか、と言ってもよかった。
 当時、日米の貿易摩擦の解消がやかましく言われていた。そのために日米間で頻繁に、又激しく交渉が行われた。外務省間だけではなく、大統領、総理の間での話合いのテーマでもあった。
 世界の経済大国に駈け上がってきた日本が輸出入貿易のバランス回復のために米国から買い入れるものは余りないところまで来ていた。大型飛行機と原発の燃料ぐらいしかなかった。
 田中・ニクソン会談で航空機の購入を強く要請されたのは当たり前であって、それがいわゆるロッキード事件として採り上げる原因となったろうと思うが、運輸大臣ならいざしらず田中総理が航空機の輸入機種のことまでタッチしたとは思われない。
 米国はその頃大へんしつこく米国製品の輸出促進を含めて、貿易収入の改善(日本から言えば改悪)をやかましく要求をして来ていた。
 例えば米国の有名なおもちゃ会社トイザラスの出店の許可をどうしても早くやってほしい、ということまで言っていた。
 米国の強い関心品目には建設事業もあった。米国企業の入札参加を具体的工事について要求してくるばかりではなく、米国の企業が全然入札に成功しないからといって、工事件数の何割かは米国の企業に必ず落ちるようにしてくれ、という要求もしてきた。勿論、そんなことは、できるわけではないが、それくらいやかましかったのである。
 そもそも日米間の貿易収支の改善を強く容求している米国側が日本の国内需要の増加により輸出圧力が減ることと、建設資材(鉄鋼なども含めて)などの米国からの輸入が増加することなども期待していたのである。
 当時の経済企画庁の試算によれば、公共事業一千億円の増加により貿易収支の黒字が一億ドル減るということになっていたのである。
 昭和四十六年の補正予算審議のための国会において大蔵大臣は財政演説において次のように述べている。
 
一.  昭和四十六年度の財政運営に当たりましては、経済の動向に即応し、公共事業等の施行の促進、財政投融資の数次にわたる追加等の措置を講じてきたところでありますが、米国の輸入課徴金の賦課及び円の為替変動幅の制限の暫定的停止という新たな事態に対処するため、公共事業を中心とする公共投資の追加、中小対策の拡充強化等、緊要と認められる経費について措置するとともに、所得税減税を年内に実施するため、所要の予算補正を行うことといたしました。
  
二.  公共投資につきましたは、国内需要を喚起し、国民生活の向上と社会資本の整備を一層推進するため、治山治水、道路、港湾、住宅、下水道、農業基盤の整備等の一般公共事業のほか、災害復旧、各種文教施設、社会福祉施設整備等をあわせ、事業費の規模で約五千億円を追加することとし、このため、所要の歳出予算及び国庫債務負担行為の追加をおこなうこととしております。

 細かいところでは、ニューヨークの総領事館も立派な公邸を一〇〇万ドルで購入することにしたのも、この補正予算であった、と記憶している。
 余談であるが、田中・ニクソン会談ホノルルで行われる一ヶ月ほど前に私は米国に主張した。正直言って、とくに緊急の要務があったわけではないが、わたしは、昭和三十年に初めて米国へ主計官として主張してから余り米国へ出かけていなかったが、何かと米国との折衝も仕事になってくるので、一度時間をみて行ってきたらいい、ということで十日位の日程で出かけたのである。
 米国の予算局長、財務長官、銀総裁などいろいろな方に会い、久しぶりに在米公館の松永大使などとも懇談して戻ってきたのであるが、後日それは、田中・ニクソン会談の下打ち合わせではないか、と衆議院予算委員会の野党のうるさ型が問題として採り上げることになった。
 この出張に随行していた千野君(当時主計官、後、財務官)大へんに几帳面にこれらの人との会談の中味を克明に記録していて、それを予算委に提出したので、ロッキードの話は一言もでなかったことが明らかになった、という一幕もあった。
 私のこの主張の中味は大したことがなかったので、その後問題として採り上げるような種はなかったことが明らかになった。
 これで一応終わるが、公共事業の問題の取扱いはそれから後も続いたのである。
 それはそれとして、それから数年後私は鳥取県第二区から衆議院議員の選挙に出ることになったが、鳥取県も緊急に実施したい公共事業を多くかかえている。鳥取県からは中田、石破と二人も建設省出身の人がいたし、決して著るしく他県より公共事業が遅れているわけではなかったが、何と言っても、いわゆる田舎であり、重要な産業都市を付近に抱えているわけでもなかったから、交通関係の公共事業もそう進んではいなかった。
 私は、選挙の地盤は米子、境港を中心として県の西部にあったので岡山、境港の間の高速道路、京都から日本海側を走る九号線の道路、境港、米子港の湾岸整備、赤碕港などの漁港整備、米子、鳥取空港の滑走路の延長、中海干拓の促進などに一生懸命予算の確保に努力した。東部、中部についても出来る限り事業の進捗に努力した。
 津の井の工業団地の採決、鳥取空港の滑走路の延長、智頭線の完成、戸倉峠、志戸坂峠、人形峠などの道路整備、浦富、賀露、青谷、泊、羽合などの漁港、港湾の整備、天神川などの改修などなど、私は一生懸命に奔走し、主計局の後輩連中にも随分協力して貰った。
 当時はまだ公共事業が毎年に対して何割も伸びる時期であったし、かなりその面では、私も役割りは果たせたと思っている。人口一人当たりの公共投資の額で島根県と全国一、二位を争ったこともあることを思い出す。
 米子空港のC1導入については、防衛庁の要請に応える代り、地方の山程の要望を施設庁に丸のみして貰ったこともあった。米子市庁舎の改築、斉生病院の改築などなど、ちょっと滑走路の延長に全く関係もないような事業の実施も約束してくらたので、地方は随分とくをしたと思う。
 その他、都市の開発、圃場整備、発電工事などなど随分事業はあった。
 毎年、県や各市町村(とくに米子市、境港市など)から国に要望する事項、県に要望する事項などを纏めてお聞きすることになっていました、議員の方の参加をあって、なかなか活発な陳情会でした。今は昔、懐かしいが、やはり公共投資の在り方は地域発展の源だから、お互いに随分熱心だったと懐かしく思い起している。
 
 


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