back 代表理事 相澤英之 のメッセージ
       「地声寸言」
  2014.09.25リリース

第百八十五回 <抑留者団体の要請>
 早いもので、もうモスコウ滞在最終日となった。随分見慣れた景色だけれどももう二度と見ることがないか、と思うと、懐かしい思いがする。窓からの景色は、朝、晩、とも何回も丁寧カメラに写しておいた。
 朝や夕は、片側五車線の目の下の道路を本当に矢のように走る。一寸壯観である。
 この国の体制はお義理にも民主主義とは言いかねる。シンポジュウムの後の席で今のロシアは何主義かと尋ねたら、誰かが自由主義だと答えた。
 土地、建物の私有地も認められるようになったという。どうも、よくわからないが、全面的ではないらしく、土地を所有するにはいろいろ手続きに時間がかかるという。
 物価は感じでは總じて日本よりも高いし、マンションの購入費も都市から三、四十分の処で、坪一五〇万〜二〇〇万というから、決して安くはない。
 交通機関としては、ちょっと前には考えられなかった位車が普及している。一条ないし二条の架線の市内電車やバスという公衆交通機関も到るところに見られる。
 道路も市内の目抜きは、片側八〜九車線のところもある上、交通信号が極めて少ないので、混んでいない時はビュンビュン飛ばせる代りに渋滞し出すとほんの少しづつしか進まず、約束の場所に行くにも予定の時間に着かないことも少なくない。
 車種は雑多であるが、どうもロシアの自国車は余り人気がないようで、ドイツのベンツなどが好まれている。プーチンもドイツ製品好みであると言う。アメ車は少ないようで、日本車はニッサン、トヨタなどで、レクサスもちょくちょく見かける。一部の金持ちの高級車好みは目立っているようである。
 服装は男女ともバラバラで、とくに昔のロシア風のものは見かけない。ビックリするぐらい高いヒールの女性も見かけるし、平均して日本の女性よりもハイヒールの丈は高い方が好まれるようである、そんな人の脚は概して素晴らしくきれいで目につく。
 町の到るところに巨大な看板が立っているが、どうしたことか何も書いていないものもかなり見かける。契約切れのせいか、と思うが、今までには余り見なかった。
 外務省、国防省などいろいろな省を訪ねた。警備が厳重なことは変わりがないが、便所などはいくらかましになって来たが、まだホテルなどに較べるとかなり汚いし、日本式の温水が吹き出してくるような装置は見かけなかった。もっともこの点は外の国でも余り変わりはないのではないか。
 歩いてみると、金のある役所とそうでないところとの差がわかる。以前は、研究所あたりで、トイレに新聞紙の古いのがおいてあったところもあった。
 シンポジュウムの後の食事のパーティでくつろいでいるところで、ソ連邦は十五ヶ国に分裂したが、まずいことをしたと思っている国民が多いのではないか、と尋ねたところ、速座にキリチェンコから九〇%がそう思っている答えが帰って来た。
 今のウクライナのゴタゴタも分裂が遠因ではないか、と言うとそうだという答えだった。
 日頃、ロシアについて思っていることをもっと聞きたかったのだが、時間がなかった。
 アラスカだってかつてロシアが七二〇万ドル買ったのではないか。大体ロシアは広過ぎるから、四島ぐらい日本に返したらいい、と思うし、嘘か本当か知らないが、かつて田中総理がモスコウに飛んだ時しこたまドル札を飛行機に積んでいて、四島を売らないか、と話をしたというが、売っておけばよかったのにと言ったら、誰かロシア人がアラスカはユダヤ人が売ったが、その金をもって逃げちゃった、という発言であった。
 そのことは、どうも怪しいが、とにかく東西端から端の時差が十一時間もある国が一つでいるのも大へんなことだと思う、と発言しておいた。
 日本の六〇万人にも及ぶ軍隊を一応整然と、一千人単位の作戦隊に分割してソ連領内に運び入れ、作業に従事させるようなことをなし逐げるには、何等かの形でソ連と日本との間で協定があったのではないか、という疑問がわれわれ抑留者の間にあった。そして、それは関東軍で事実上軍司令官の代理をしていた瀬島參參などではないか、という話が今日までも厳存している。当の本人は固く否定しているというが、このことについてはいかなる質問にも答えることなく亡くなったので、今となっては確かめる手段は残されていない。
 ロシア側にも二十年余にわたる接衝の間、この点について確かめてみたが、そんなものはない、見たことはない、あるとすれば日本側にも片方は残されているのではないか、とゆうような返事で、全く要領を要ない。
 とられたものは必ず取り返すというのが、ロシア流の考え方であるということを聞いた。そして、今次のロシア軍の満州などへの侵入の際、日露戦争の仇を返すのだという合言葉を口にしているソ連軍将兵の言葉も度々聞いた。
 日露戦争は日本軍の一方的な侵略行為によるものなどでは全くなく、当時のロシア軍の無道な行動に対する阻止の正当防衛のための戦いであると承知しているが、その敗戦の仕返しであるというようでは正義も何もない、ということになり、戦いは無限のものとなって行くように思う。そんなものでよいのだろうか。
 ともあれ、われわれは、八月十五日の終戦の日以後において捕われたので、決して戦闘間白旗を揚げて降伏した軍隊ではないことを強く内外ともに主張して来ていた。
 日ロ(当時は日ソ)間のシンポジュウムでわれわはれ捕虜であると主張するロシア側の人たちに対して、われわれは決して捕虜ではない、天皇陛下が戦いを止めようと言ったから止めたのであって、もしも、そうでなければ、最後の一兵になるまであなた方と戦ったに違いない、と力説して口喧嘩となったことを思い出す。
 この姿勢は基本的には変っていない。そうは言っても、しつこく捕虜(ボエノ・プレンニュフ)という言葉を使うロシア人にその言葉を使わせないとする努力はいささか草皮れた、われわれは実質(賃銀補償)をかちとろうとすることに努力の重点を置いている。
 しかし、何と言っても、日ソ共同宣言の第六項が妨げとなる。われわれは実質ソ連軍による拉致にあい、その量においても六十万人という、それこそ今も問題となっている何十人かの拉致問題とは較べものにならぬ被害ではないか、ということを朝野に力説したい。
 第二次大戦では、ソ連の若者は本当に多数戦場に教り、或いは生涯とり返せぬ障碍者となった。本当に気の毒である。
 しかし、戦闘間のことであれば止むをえないが、こちらは戦争が終ってからの死傷の問題である。
 六〇万人の将兵の力を経済復興五ヶ年計画に活用しょうとした意図はわかるが、タダ動きを強制するとは、いかにも理が立たぬ。
 われわれは、そこで、せめて賃銀の補償を要求しているのである。支払うのが当り前ではないか。
 
 


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