back 代表理事 相澤英之 のメッセージ
       「地声寸言」
  2014.03.10リリース

第百七十四回 <民族と主義>
 昭和二十年八月十五日の終戦の前、ソ連軍が日ソ不可侵条約を破って、満洲、北鮮、樺太、千島に侵入して来たのは日露戦争の仇を打つのだと称していた。
 現に、われわれは終戦後、ソ連の兵隊からそう言われた。私どもは、彼等に日露戦争で破れてツアーの勢力が弱まったので、プロレタリアート革命が成就した、少なくとも促進されたと言えるのであるから、ソ同盟は日本に感謝しなければならないので、仇を打つなどとはとんでもない間違いではないか、と言ったことがある。
 彼等は耳もかさなかったが、われわれの言うことが妥当である、と思っていた。
 結局、主義、主張とか、何とかよりも、民族としての勝敗が先に立つので、日露戦争は彼等には恰好の理由づけとなっていた。
 それにしても、開戦時の大本営、関東軍の混乱はひどいものであった。
 私は、今、半藤一利の書いた「ソ連が満州に侵入した夏」を読みかけている。ソ連に連合国との和平交渉を依頼するというと、今考えてもとんでもない、見当違いの行動の方針が、どれだけ日本軍及び居留民を悲惨な状況に叩き落としたか、が一層ハッキリわかる。
 エラブガの収容所に昭和二十年の大晦日に入った時、ドイツ軍の将校から、われわれがモスコウを目指して進撃している時に、何故日本軍は東からシベリヤに侵入し、ソ連軍を叩かなかったのか、もしそうしていれば、われわれは戦勝国となって、今ここで手を振ることができたのに、全く惜しいチャンスを逸した、と言ってため息をついていたことを思い出す。
 本当にそうだったのなら、と思う。所註日本の連合国とでは兵力と機械的装備において大差があったが、ソ連軍も東西二正面で戦ったら、東西の距離がとてつもなく長いだけに、日、独でソ連軍と少なくとも互格の戦いをすることができたのではないかと思う。
 ノモンハンの戦いで、ソ連軍の戦力を知らされただけに、ある意味では、ソ連軍とは戦いたくない、という気持があったのかも知れない。それが、問題なのではなかったか。
 関特演後の関東軍の精英部隊は、ソ連軍の主力がドイツと戦うべく西に行くとみて、二十数万人も南にふり向けられていたので、とてもドイツが屈服した後のソ連と互格に戦う力はなかった。
 私の属していた第三十四軍は北朝鮮に駐屯していたが、八月九日ソ連兵が侵入して来た時にわれわれに下された命令は、今、正確には覚えていないが、ソ連軍を撃破せよ、といったものではなく、抵抗しつつ後退し、宣化を中心に集結せよ、というようなものであった。
 これでは、ソ連軍を撃破せよという命令には程遠いもので、われわれは、おかしい命令だな、と当時思ったものである。
 今、この本を読んで、成程、小田原評定みたいなことで貴重な時間を消費していた大本営のあり方がよくわかった。
 それにしても命令は徹底を欠いていた。第三十四軍は関東軍の一部として北朝鮮に上陸して来たソ連兵と戦い、これを何度も撃退し、意気が騰っていたという。
 八月十五日を過ぎて、もう戦争は終ったんだと前線に停戦命令を傳えて行った司令部の一将校は敵のスパイだと言って射殺されたので、改めて竹田宮が関東軍の参謀として前線に出向き、やっと説得して戦いを止めさせた、と聞いていたが、本当だと思っていた。
 負けた経験がないだけに、敗軍の指揮は難しかったと思うが、ソ連はその日のあるを期して戦後われわれを明らかにポツダム宣言に違反してシベリア奥深く運び込み、強制労働に従事させる準備をととのえていたものだと思う。
 私の所属する第三十四軍司令部が中支の漢口から北鮮の咸興に移駐を命じられた時、一体何の目的かと怪しんだが、その後関東軍司令部からソ連軍の侵入があれば山に籠ることとし、二万人分の天幕と十五万枚の毛布などを大連の貨物廠から受領するように指示があった。ソ連軍の軍服八千人分も併せて受領するように言われたが、これはゲリラ部隊として使用する予定と聞かされた。
 初めはわれわれが中支から移って来たのは、米軍の朝鮮半島上陸に備えるためとばかり思っていたが、矢張りそうではなくてソ連軍の侵入に備える為とわかったのである。
 いずれにしても、大本営の指示も後から考えると状況の変化に一テンポも二テンポも遅れていたと言わざるをえないものであった。
 われわれの動きは細大も洩らさず暗号の解読によって米軍に筒抜けになっていたことと考え合わせてみる必要がある。
 しかし、われわれはまだ部隊として纒って行動するー例えソ連側の命令だとしてもーことで被害が少なくて済んだのかもしれない。
 満蒙義勇隊、開拓団、一般民間の人達はいわば、軍に置きざりにされるような目にあって、ソ連軍の暴行、掠奪、強姦など様々な被害を受けざるをえなかったことを考えると、五族協和、王道楽土を目印にして創られた満州国であっただけに、本当に断腸の思いを禁じえない。
 
 


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