back 代表理事 相澤英之 のメッセージ
       「地声寸言」
  2014.02.14リリース

第百六十八 <竹島>
 一月二十二日産経新聞(朝)の「『竹島は日本領』江戸時代に定着」という見出しが眼についた。
 「江戸時代後期に作製された複数の地理学者による地図五点に、いずれも竹島が日本領として記載されていることが二日、島根県の竹島問題研究所の調査で分かった」
 竹島が記された初期の日本地図は「改正日本輿地路程全図」であって長久保赤水作製、一七七九年初版。
 十七世紀半ば以降日本で作られた地図では竹島が日本領であることが明らかであった。
 私は選挙区が鳥取県であり、西部の境港市は漁港として水揚高日本一という時期もあり、私は全国の大中型捲網協会の会長をしている。水産業を地盤としている立場からも、竹島領有権については強い関心を持っていた。
 正直言って不思議でならないのは、わが国の領土である竹島に韓国の軍隊が上陸し、接岸施設も作られ、着々として実効支配の状態が進められてきていたのにも拘わらずどうしてもっと日本も実効支配を進める努力をしなかった、という点である。
 言うまでもないが、日本は、竹島と北方四島、尖閣諸島という三つの島の領有について外国との間に紛争があるが、それぞれの対応が異なっている。
 竹島については、昭和五十三年沿岸三海里が十二海里になった年の五月自由民主党の広報副委員長として韓国を訪れた際、表敬訪問をした崔国務総理に竹島の問題を持ち出したのである。
 竹島の問題に触れないで欲しいと在韓日本大使館員から話があったが、大へん不愉快な思いをいだいた私はそれにも拘わらず崔氏に竹島の話を持ち出した。
 崔氏はアジア局長を予め喚んでいたが、彼はいきなり江戸幕府の末期林子平の作製したという地図を拡げて見せた。その地図では、竹島は韓国と同じ色に染まっていた。
 私は、咄嗟のことで、何故そんな地図があるのか、その地図は本当に林が作ったものかなどわからなかったが、とりあえずその場でそんな地図は幕府の公式の地図かどうかもわからないし、林子平は幕府の学者でもないと答えておいた。
 日本の外務省その他公式の機関と先方との間で過去どのような接衝があったのか、詳らかに承知をしていないが、少なくともマスコミもニュースなどで知りえる範囲では、何故もっと早くから毅然とした態度で韓国と交渉を続けてくれなかったか、なぜもっと明らかに実効支配を進めることをしなかったか、残念でならない。
 こちらが紳士然とした態度でうじうじしている間に、どしどし土足で踏み込むようにして侵入してくる相手に対しては、それなりの態度で接するしかない、というように思う。
 時に世間でそんな大した価値のない小さな島の問題でがたがた言って大事な経済関係を傷けるようなことはないではないか、という人もないではない。
 しかし、領有権は国の権咸の問題であり、又、そこを基点とする沿岸二〇〇海里の経済圏の問題である。資源問題がからむことも多い。
 私は、アルゼンチンのヴェノスアイレス沖のフォークランドの領有が争われた時のサッチャー首相が毅然として対応措置をとったことを忘れられない。領有権とはそういうものである。
 (註)幕末の学者林子平は、北は松前から、南は長崎まで全国を行脚し、「海国兵談」、「三国通覧図説」などの著作を著したが、海国兵談は版木沒収の処分を受けた。
 「三国通覧図説」は外国でも翻訳されたが、地図は正確性ではなく、かなり杜撰に描かれているものであった。
 韓国では、これを竹島・対馬領有権の証拠と主張したというが、根拠のない話である。
 
 


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