back 理事長 相沢英之 のメッセージ
       「地声寸言」
  2012.07.17リリース

第百二十六回 <『草枕』の那美と辛亥革命>
 漱石の草枕を初めて読んだのは小学生の終り頃ではなかったか。その後、中学の教科書でも冒頭の一部が出ていたように思う。
 
 「山路を登りながら、かう考えた。
 智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい」
 
 何度読んだだろうか。中学生の時の国語の担任は後に文化功労者にもなった萬葉学者の犬養孝先生であった。先生のお蔭で文学に対し開眼されたと言ってもいい。教室でもありきたりの教科書の他に漱石や芥川などの小説について解説があったり、朗読もあった。先生は熊本の旧制五高を卒業後最初の任地が横浜で、われわれの中学校であった。草枕も漱石が五高の教授の時の忘れ難い記憶が下敷きとなっている。
 私の父は東京高師(現筑波大学の前身)英語科卒業の教師であった。文学に対しては熱心でなかった父の書棚に並んでいたのが、漱石全集と菊池寛の全集であった。菊池寛は高師時代、同級で寄宿舎も同室であったという縁故であったが、なぜ漱石の全集を買ったのか、はついぞ聞きそびれてしまった。
 いずれにしても、小学生の頃から二つの全集をぽつぽつと読み始めた。「草枕」は「坊ちゃん」や「三四郎」など繰り返し読むようになったが、いつ読んでも漢字などの用法はさしおき、およそ古いという感覚を受けない作品である。
 明治人の気骨を持った学者であり、気難しい人でもあったが、女性に対して決して関心が薄かったということではないようである。三四郎をそのまま漱石と見るわけではないが、当時は安易に恋情を表すようなことはなかったであろう。
 にも拘わらず。漱石の那美(実名・前畑卓(つな))に対する心情はなみのものではなかったことは、夫人の入水事件との関り合いからも察することができたのではないか。
 ただ、その卓が地方政界の雄(第一回の衆議院議員選で議員となる)前田案山子の次女として、父親などとともに孫文の中国独立運動でも深い係わり合いを持ち、一家を挙げ、資産を投げ打ってそれを支援したことは、ついぞ、この書を読むまでは知らなかった。卓の別の面、それはこの草枕の随所に出てくる那美の言動と無縁ではないが、伺い知れざる働きである。
 後半、漱石はそれらのことを知らされて、「そういう方であったのか、それでは一つ『草枕』を書きなおさなければならぬか」、と洩らしたというが、そう思ったのも無理からぬ、と思う。
 孫文の中国革命には、実に多くの日本人が加担していた事実は、とかく忘れ去られようとしている。
 そのことが、直ちに現在の日中関係に影響を及ぼすものではないことは明らかであるが、明治から大正にかけて実に多くの中国人が仰ぎ見る先進国として日本に留学し、近代国家の在り方を勉強したことは充分記憶すべきことであると思っている。
 それにしても、漱石と卓は、草枕の時以後、何回もあっていたことは事実の様である。
 卓が晩年共に暮した弟九二四郎の息子の妻・花枝さんの言葉が残っている。卓は、「一生の間ロクな男に出会わなかったが、夏目さんだけは大好きだったよ」と。この花枝さんは又漱石と卓の二人だけの写真、傘をさした浴衣姿の夏の写真を見ている、という。
 卓の父、案山子と妾・林はなとの間に生れた利鎌は一高に学んで、当時英語の教師をしていた漱石の授業を受けたというのも奇縁ではないか。
 ちなみに、私は、先年、熊本に出かける折があったので、小天に出かけた。漱石の歩いた道を、と注文していたが。峠の茶屋も当時のものではなかった。小天には漱石の泊った部屋もあり、又、那美さんの裸体のすばらしい描写が残されている風呂も見せて貰った。
 それからもう十年にもなるだろうか。
 
 


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