back 理事長 相沢英之 のメッセージ
       「地声寸言」
  2012.06.21リリース

第百二十四回 <ステッセルのピアノ>
 何故か全国に存在するステッセルのピアノの伝説を追って作家五木寛之が日露戦争で散った人々(乃木将軍やステッセル将軍など日露戦争を、とくに旅順での攻防をめぐって文字どおり死闘を演じた人々)への鎮魂の思いをこめて綴ったドキュメントを中心とするエッセイである。
 五木のものは、こゝ数年かなり沢山読んだが、これは特に推奨する一本である。
 私達は例の「水師営の会見」を文部省唱歌として長いこと親しんで来た。佐々木信綱作詞、岡野貞一作曲のこの歌を乃木大将はあまり気に入らなかったそうであるが、今でも私は、殆んどこの四行詩を唱うことができる。
 二〇三高地の争奪で山形改まる程の激戦を繰り返した挙句、日本軍が勝利し、関東軍司令官・中将ステッセルは白旗を揚げて降伏した。
 その旅順開城の約なって、乃木・ステッセルの両将軍が会見をしたのが水師営である。
 その会見の模様は、歌によく出ているが、実は、私も数年前に所用で大連方面に出張する折があったので、一も二もなく希望して二〇三高地などの古戦場、水師営の会見場等を見る機会を得た。
 作者五木寛之よりかなり後であったのか、そういう場所にもより自由に入ることが出来た。
 二〇三高地は私どもにも高かった。私は、麓に屯している駕籠かきにつきまとわれて駕籠に乗った。手慣れたもんで、あっという間に上ったが、ここを肉弾で攻め上がるのは容易なことではないと思った。
 水師営の「崩れ残れる民屋」に入ったが、何やら不愉快な楽書きもいろいろ眼についた。これがあの歌の会見場かと、思う。粗末なたたずまいであった。「庭に一本棗の木」の棗もあったが、昔のは既に枯れて二代目とか。
 ところで、ステッセルの「我に愛する良馬あり。今日の記念に献ずべし」との良馬は「他日わが手に受領」することになって、その馬は鳥取県赤碕町にある、ということであった。
 ステッセルが乃木に送ったアラブの白馬は乃木が戦役中乗り、戦場を馳駆し、凱旋の後払下を受け自家用として愛育した。その後、かねてからのステッセル将軍の厚意に酬いるためにこの名馬をわが国の馬匹改良に役立てたいと、軍馬補充本部長の大蔵中将に相談した。鳥取県の大山には軍馬補充部大山支部があり、その下に赤碕派出部が置かれていた。この赤碕の郵便局長佐伯智文は非常な愛馬家で知られ、自ら佐伯牧場(現在の赤碕小学校一帯の地)を経営し、乗馬界多大の貢献をしていたのを大蔵中将の知るところとなり、この馬寿號(スゴウ)を種馬として贈ることになった。明治三十七年十二月七日付で乃木希典と署名・華押のある寿號畧傳が残されている。
 この馬は、佐伯牧場にあること八年余、その間種馬として約八十頭の仔馬を得た。
 その後、佐伯の好意で、軍馬の育成を行っていた隠岐に送られ、海士町の陸軍三等獣医渡辺諄三の牧場にあること四年、種馬として仔馬約十頭を得たが、大正八年五月二十七日病のため享年二十三をもって、その数奇の生涯をとじたという。
 ところで、赤碕の牧場は、戦後農林省の畜産牧場として継続していたが、昭和五〇年代の初め、赤碕町の同和対策の一環として、小集落の形成事業が実施され、その用地として赤碕の牧場の一部を払い下げて欲しいという要望が地元の関係者からあった。
 私は、是非これを実施したいと思い、農林省に要請したが、畜産局はがんとして払下げは出来ない旨の回答であった。その理由は、現に種馬牧場として活用しているので、一部といえども用地は削れないということであったが、それにもう一つ、この赤碕の牧場は、あの水師営の会見の歌にある名馬がいた、その意味で大へん歴史のある牧場である。ということが、反対の理由につけ加えられていた。
 私は、その様な歴史はあろうが、小集落の事業のために枉げて協力を願いたい、ということで当時の杉山畜産局長の英断を求めた。彼は、水産庁長官に栄転の発令のある前の日に払下げる決済をしてくれた。今もって、彼に感謝しているが、五木のこの一本を読んで、そのことも併せ思い出した。
 
 


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