back 理事長 相沢英之 のメッセージ
       「地声寸言」
  2011.03.22リリース

第八十五回 <「雪国」>
 昨年、私がメンバーである東京ロータリーの会報に「随想」の一篇として「雪国」と題する一文を載せた。
 それを転載し、少し川端康成の作品について思っていることを記してみたい。
 雪国
 湯沢の深い雪の道にそそり立つ杉の並木を覆う灰色の雲を眺めていると、ここを「雪国」の駒子が歩いていたのか、と思った。川端康成の雪国を初めて読んだのは、私が一高に入った昭和12年の頃ではなかったか。
 親譲りの財産で無為徒食しながら、西洋舞踊の紹介などをしている島村が、上越の温泉町(湯沢)で駒子という芸者に会って、通うようになる。駒子は病気になった許婚者の療養費をつくるために芸者になったような女だが、島村はそういう行為にも、また会う度に深まる自分に対する愛情にも徒労を感じ、徒労と思うゆえにかえってそこに純粋な、無償の美しさを感じる。
 私の同級生で校友会雑誌文芸部の長谷川泉や白井健三郎が先輩の川端康成を鎌倉の自宅に訪ねた時、2時間余りの間、殆ど何もしゃべらずにあの澄んだ眼で見つめられて身の置き処もない思いで辞去したという話を聞いた。
 2歳の時父が、3歳の時母が死に、孤児となった後10年間2人暮らしであった祖父も16歳の時死んで伯父の家に引き取られたという彼は孤児の感情を懐いていた。
 一高に入学後、初めて伊豆に旅し、天城を越えて下田に出る旅芸人の一行と道ずれになったその経験が「伊豆の踊子」の胚珠になった。私も友人と天城越えの道をマントに下駄で歩いた。ひょっとしたらと思った旅芸人の一行に会うことも無論なかったが、わさび田の清洌な水の流れと澄んだ山の空気は今も思い出す。
 雪国の宿を見たいと思い、戦後、高半ホテルに泊まり駒子の部屋も見た。10代で読んだ雪国はその後読み返すごとに何も知らずに読んでいたなと思う箇所が多かった。徒労の人生は悲しくも美しいものだと知るには歳月が必要だ。
 彼がよく泊っていた四谷の福田家の仲居のゆき子が、銀座で彼が命名したという「ゆきさん」というバーを始めた時、開店にわれわれも押しかけたが、先輩と呼びかけるわれわれを黙って、しかし決して冷たくはないあの眼で見ていた彼は軈てふっと消えてしまった。
 ノーベル賞を受賞した彼は鎌倉のマンションで自殺したという知らせで、残念だという思いと、やっぱりそうかなという感概と入り混じった気持ちであった。
 彼は旧制一高で私の先輩であったし、私が昭和十二年入学した頃、丁度創英社から発行されたのが雪国であって、それを一気に読んだ感激は今も忘れないようである。
 その後、彼の作品の殆ど全部を読んだし、その頃一層目覚めた私の文学に対する傾斜は激しくなって、自分でも伝統のある文芸部の校友会雑誌や寄宿寮の新聞「向陸時報」に幾つもの短編小説を載せるようになった。高校卒業の時、東大も文学部に入って小説家の道を志すことも真剣に考えたが、この道は努力だけで渡れるものではないと諦め、せめて文芸の育つ環境作りをしたいと法学部に入ることにしたのである。
 それはともかく、彼の作品のうち、戦後の「千羽鶴」、「山の音」、「舞姫」、「古都」などよりも、私は、戦前のものの方が好きであった。
 あまりにも有名になった「伊豆の踊り子」や「浅草紅団」、「浅草の姉妹」、「浅草の九官鳥」、「虹」、「花のワルツ」などの浅草ものや、「禽獣」、「童謡」。「化粧と口笛」などは十回も読んだ。
 高半ホテルのある越後湯沢はそれこそ雪の深いところであったが、私一高仲間の高橋が造り酒屋をやっていて、銘酒「白滝」をだしていたし、私の義弟が医者をしていたり、何かと縁のある土地であった。
 一高の文芸部には、私の入学当時二年上には中村真一郎、小島信夫、川保晃自、一年上には加藤周一、同級生には高木彬光、白井健三郎など後年その道で名の出た人達が活動していた。
 
 


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