back 理事長 相沢英之 のメッセージ
       「地声寸言」
  2011.03.18リリース

第八十三回 <「エジプトの動乱」>
 ムバラク大統領の辞任を求めてエジプト全土に拡がっている民衆デモに対してムバラク側のデモ隊が突入するなどの大混乱となっているが、軍は民衆デモを制止せず、エジプトは無政府状態に陥っていると伝えられている。
 私が初めてエジプトを訪れたのは、今から56年の前の1955年(昭和30年)であった。大蔵省の主計官であった私は、主として米、英、独、仏各国の予算編成制度を調査するようにと2ヶ月間の出張命令を貰った。その帰途、学生時代から憧れていたアテネのアクロポリスのパルテノンを心ゆくまで眺めて、特異なギリシャのワインを堪能した後、カイロを訪ねることにした。
 折悪しく、中東情勢は悪化し、カイロは戒厳令下にあると、ギリシャの公使に止められたが、そんな状態の時は滅多にないから是非行って見たい、と若さのせいか、半日も俟たされた飛行機に乗ってカイロに着いたのである。
 紀元前3千年も前から始まるエジプトの国は、ピラミッドにスフィンクスなど心ひかれれる世界遺産(当時はそんな名称は余り使われなかったかもしれないが)を是非一見したいと思っていた。
 戒厳令下の街は灯が消されて暗くなっていたが、後から思うとスエズ運河閉鎖の前であって、街の空気も何となく重苦しく感じた。お世話になった大使館内にも何となくあわただしい空気が漂っていた。たった二泊のカイロであったが、強い印象を遺していた。
 それから、30年余り後、衆議院議員をしていた私は、エジプトと日本との間に議員連盟がないことに気付き、音頭をとって友好議員連盟を作ることにした。当時は、在日エジプト大使は女性のタラウェイさんであったが、大へん乗り気で、間もなく外相経験者の伊東正義議員を会長とする日本エジプト友好議員連盟が発足した。私は、議連の幹事長となり、暫らくして伊東氏の政界引退に伴い、会長を勤めることになった。
 エジプトは世界的にみても観光の国として有名であって、日本からも年に20万人を超す人達が訪ねていたが、1997年ルクソールで日本人20数人が亡くなるという出来事があって以来、外務省のブラックリストに乗り、ナイル河の上流の方への旅行は原則として認められないなどの規制が加わったので、観光客も3分の1ぐらいに減ってしまっていた。
 その後、予算委員の一行とロンドン、パリなどを訪ねた後、原田昇左右議員などとカイロを訪ね、大いに歓待された。
 人民会議議長、首相、各閣僚とも会談。晩餐会、ナイル河のクルーズなども楽しんだ。クルーズの船上、ベリーダンスは眼福であったが、船の両側を一定の距離をおいて並行して走るPOLICEと印した船は何故かと尋ねたら、私達一行にもしものことがあったらとの警備の船だということであった。何処へ行くにも一ヶ分隊ほどの警備員がついていたが、クルーズでの配意には少々驚かされた。
 その後、スエズキャナルに日本の援助で橋が架かることになって、そのアジアとアフリカを結ぶ橋の記念すべき落成式に一万人の日本人を招き、双方から行進して橋の真ん中で手を結び合う、という派手な演出を伴う行事をやろう、ということになったが、中東の情勢の変化とどうも日本で議会の解散、総選挙が近づきそうな気配が起こったりして、半分になり、10分の1になり、50人でもといっているうちに計画が流れてしまったのは、かえすがえすも残念であった。
 それから、暫らくは、毎年のエジプトのナショナルデイに大使公邸に招かれて出かける程度の交流であった。もっとも、日本エジプト友好協会などの会合の催しにはできるだけ出席していた。
 平成十六年議員を引退したので、友好議連の会長を辞して、次を高村正彦氏にお願いした後、高村夫妻とエジプトに出かけたが、平成19年、日本エジプト協会の足高会長から、故高円宮殿下の記念碑がアスワンに建てられ、その除幕式に妃殿下がお出かけになるので、是非お伴に一緒して欲しいという依頼があったので、快く引き受けることにした。
 故殿下が2回ほどエジプトを訪ねられたこともあり、殿下の訪問を記念して記念館を作ることになったが、とりあえず記念碑の除幕式を行うことになったのだという。
 夏のエジプトはかなり暑かったが、妃殿下はとてもお元気で、連日の行事日程を楽しんでおられた。ある日、明日5時からバードウォッチングに行くので、御一緒しませんかと言われる。私は、かなり疲れていたし、暑さで少し参っていたので、丁寧にご辞退した。
 妃殿下は、重い本格的なカメラを持ってパチパチやっておられたが、後日催された写真展で拝見した写真はお世辞ではなくとてもご立派であった。
 夫に考古学者を持つアガサクリステイはこのエジプトには度々訪れてナイル殺人事件のような名作を残している。アスワンのオールド・カタラクトというホテルに泊った時、ボーイが彼女の名を扉に掲げた部屋に案内してくれたので、それバックにして一枚写真を撮って貰った。私にとっては、いい記念になると思った。
 そういうことで、エジプトを訪れたのは前後4回だけであるが、素晴らしい世界の宝に満ちたエジプトには又、訪ねたいといつも思っていた。
 そのところにいわば動乱の知らせである。
 初めてエジプトを訪ねた時から3年前訪れた時との間には40年余り経っている。その間のエジプト、とくにカイロは大へんな様変わりであった。車の影の乏しかった昔と違って街は車で溢れていた。おまけに交通信号は殆んどないに等しく、ドライバーは車と車の間に適当に鼻を突っ込んで駆っている。という感じであった。その割には事故の現場を見かけないのは、信号がないだけに皆が注意しているのか、と思うと、それも一つの規制のない交通整理の方法なのかな、と思ったりする。
 それにしても、街に溢れる程いる人々がいい暮らしをしているとは思われない姿が多かった。
 サダトに続くムバラク大統領の長期政権である。通常の民主主義国家ではとても考えられない政治の姿である。よくまぁ長続きするものだと感嘆せざるをえないが、それも基本には軍隊の力がバックにあるからではないか。他の長期政権の国とて、恐らく同じような事情ではないか、と思うが、民衆の蜂起は恐ろしい。フランス革命などがいい先例である。
 ムバラク大統領は辞任を表明するとともに軍最高評議会議長ムハマド・フセイン・タンタゥイ氏を大統領代行に任命した。
 エジプトはアラブ諸国のいわば旗頭的な存在であると見られるだけに、中東情勢に神経質になるほど関心を寄せて見守っている米国がどう出てくるのか、が一つのポイントである。
 ともかく、早くこの動乱が何とか鎮まって欲しいと思うし、又、破壊されたら取り返しのつかない貴重な世界の宝が無事であるようにあって欲しいと思う。それには、今までのような政治体制では今後とても収まらないだろうと思うにつけて、民主主義の体制に転換されることを期待して止まない。
 
 


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