back 理事長 相沢英之 のメッセージ
       「地声寸言」
  2010.04.16リリース

第六十四回 <「四月十七日」>
 この日は明治28年(1895年)下関条約調印の日であった。
 明治27年(1894年)七月に始まった日清戦争は日本の勝利のうち翌年を迎え、北京は南北両方から挟撃される形勢となった。これに驚いた清国は3月19日全権弁理大臣李鴻章を派遣して来たので、わが方は下関の春帆楼において伊藤博文・陸奥宗光らをして之と談判せしめた。その結果4月17日に至り講和条約調印の運びとなった。その主なる内容は清国は朝鮮を属国扱いしないこと、遼東半島・台湾等の割譲、賞金二億両(邦貨約三億円)の支払、蘇州等四港の開港などであった。しかし、わずか1週間後の23日に露独仏三国が遼東還付を勧告するいわゆる三国干渉が起り、日本も力不足、不承不承これに従わざるをえなかった。
 この三国干渉は、諸外国が清国内に自国の権益を確保するために行われたことは明らかであって、事実、翌年、露と東清鉄道についての密約、仏と海南島不割譲協約の締結、独の膠州湾占領、つづいて租借、露の大連・旅順租借、英の咸海衛租借、露の関東州の設置、仏の広州港の租借と相ついで清国に対する欧州各国の事実上の侵略が始まったのである。
 この諸外国の勢いに抗していわゆる義和団の事件が起ったが、連合軍の北京占領をもって清国は各国と講和せざるをえなくなった。とくに露の極東への浸出行動は著しく東清鉄道、シベリア鉄道の完成などをもって、いよいよ露骨な侵略意図を現わし、やがてはこれを阻止しようとする日本との間に日露戦争を招来することになったのである。
 田地の開墾をすすめる(三世一身法)神亀元年(723年)4月17日。
 当時の大政官奏上として「新たに溝池を造り、開墾を営む者あらば、多少に限らず、給して三世に伝えしめん」と書きとどめている。三世とは本人・子供・孫の三代のことである。この年は聖武天皇即位の年で農民の人口も増え、耕地が不足して来たので、その対策として荒地の開墾をすすめ、その恩典として三代に限り土地の私有を認めたわけである。当時は土地私有は認められず、いわゆる班田収授制により貸与された土地からの収益の何割かを租として納める制度であった。
 北畠親房(責族・武将)没す。後村上天皇の正平9年(1354年)である。彼は南朝の重臣で万里小路宣房、吉田定房とともに後に三房と称された。
 後醍醐天皇の信任あってく、父親の例をこえ大納言に任官。元弘3年(1333年)義良親王を奉じ、長男顕家とともに陸奥国に下る。建武2年(1335年)足利尊氏が建武政権にそむくと上洛。同年の尊氏東上で伊勢にのがれる。後、再度の陸奥下向を企てたが遭難し、常陸に漂着、近隣豪族の軍勢催告を行ったが失敗し、吉野に戻る。後、正平統一に功左って准后となるが、京都占領に失敗し、吉野の賀名生に退却、その地で没した。この間、親房が寄寓した筑波山麓の小田城で著した歴史書が神皇正統記(じんのうしょうとうき)であって、神代からの皇位継承の経緯を述べ、とくに後醍醐天皇にかかわる部分に力を入れ、南朝の正統性を独自の政道思想によって主張している。天皇の超越的性格と三種の徳をあわせて説き、神国思想を強く打ちだしたことは、後世に大きな影響を与えた。
 徳川家康。後水尾天皇の元和2年(1616年)没す。
 家康については、ここに特に述べる必要はない程知られている人物である。ただ、徳川三百年の太平の基礎を築いた筈の彼が、何となく国民的人気がなく、狸おやじというような別称を貰っているのは、どういう訳かなと思うことがある。日本人の判官贔屓の裏がえしかなという気もなくはない。
 杉田玄白(医学者)仁考天皇の文化十四年に没している。
 すぎたげんぱく江戸中期の蘭方医・蘭学者。若狭国小兵藩医。名は翼、号は斉(いさい)のち九幸。玄白は通称。塾名は天真楼。江戸生まれ。漢学を宮瀬龍門に、蘭方外科を西玄哲に学ぶ。山脇東洋の解剖観察に刺激され、オランダ通詞にオランダ流外科について質問、蘭書の入手につとめた。明和8年(1771年)小塚原刑場で死体の解剖を観察、携帯したオランダ語解剖書「ターヘル・アナトミア」の内景図が実景と符合していることに驚嘆、同志と翻訳を決意。74年(安永三)「解体新書」五巻として公刊し、蘭方医書の本格的翻訳の先駆となった。会読・翻訳・公刊の苦心は晩年の回想録「蘭学事始」に詳しい。以後、診療と後進の育成に尽くした。多趣味で、「後見草」「野叟独語」など社会批判の書もある。(以上、日本史広辞典、山川出版社から引用)
 菊池寛の「蘭学事始」はターヘル・アナトミアの読解の苦心を綴った名文であって、「うずたかし」の一語を解読した喜びをいきいきと伝えている。
 読者諸賢いささか飽きられたか。
 
 


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