back 理事長 相沢英之 のメッセージ
       「地声寸言」
  2010.04.14リリース

第六十三回 <「縁」>
 いろはガルタに「縁は異なるもの味なもの」というのがある。「何事も縁、縁は知れぬもの。合縁奇縁。出雲の神の縁結び」(「故事ことわざ活用辞典。」創拓社)
 明烏(あけがらす)と併称される新内の代表曲「蘭蝶」は「縁でこそあれ末かけて、約束固め、身を固め・・・」と始まるが、あの「えーん」という最初の発声と聞くだけでも身に戦慄が走る思いである。初世鶴賀若狭掾の作曲である。
 声色身振師市川屋蘭蝶は、吉原榊屋の遊女此糸(このいと)になじみ、妻お宮の真心と此糸への思いの板ばさみになって苦しみ、結局此糸と心中する。通称「此糸蘭蝶」。
 新内節は浄瑠璃の一流派で延享2年(1745年)宮古路加賀太夫が宮古路節(豊後節)から脱退し、富士松薩摩を名乗ったのが新内節の遠祖であるという。この富士松節から出た鶴賀若狭掾の門弟に鶴賀新内がおり、その初代新内までは鶴賀節といわれたが、文化年間(1804〜18)の二世新内から新内節というようになった。新内節は劇場から離れ、吉原その他の流しが中心となった。三味線を二人で他と高音を弾きあわせながらの語りは江戸情緒を伝えて本当によかった。お祝儀を差し出した竿の先に挟む景色も絵になっていた。
 一寸、話が流れ過ぎたが、元に戻して「縁」についてである。
 旧制一高の数ある寮歌の中で最も唱われた一つの第十七回記念祭寮歌の第二節を思い出す。
 
 野路の村雨晴るゝ間を しばし木蔭の宿りにも
 
 奇しき縁(えにし)のありと聞く 同じ柏の下露を
 
 くみて三年の起き臥しに 深きおもひのなからめや
 
 
 さる4月8日、現在私が学長をしている東京福祉大学の入学式でこの寮歌を引用しつつ、広い日本の中でたまたまこの4年の年月同じ学部、同じ学科、同じ教室で席を並べて学ぶご縁というのも深い縁と思いを致して、いつまでも大事にしていただきたい、という話をした。そして、友達というものは何でも打ち明ける、何でも相談しうる、親にも増して大切な存在ともなる。この寮歌の4節にあるように「友の憂いに吾は泣き、吾が喜びに友は舞い」ような一生の友を得られるのも学校であると言葉を継いでおいた。
 上方糸のいろはガルタに「袖振り合うも他生の縁」という一枚がある。―ちょっとした人との交わりも、単なる偶然によるものではなく、深い宿縁から生じているということである。
 他生とは前世あるいは来世の意味であって、仏教観に基づくことわざである。
 道を歩いている時見知らぬ人と袖が触れたくらいのささいなことでも、それは前世からの因縁によるという意味である。「袖すり合うも他生の縁」という言い方もあって、カルタの絵札には専ら若い男女のすれ違いの場面を描くものが多かった、という。
 「縁なき衆生は度し難し」という「鎌倉諸芸袖日記」から出たが、よく使われる言葉もある。仏の大きな慈悲をもってしても、仏を信じないような仏縁のないものは救うことができないとの意で、人の意見を聞き入れようとしない者はどうしようもないことのたとえである。「渡す」とは「済渡する」の意で、法を説いて悟りを聞かせることをいう。
 江戸初期の仮名草子竹斎(巻上)に「一樹の蔭、一河の流れ、道行き振の袖の触れ合わせも、五百生の機縁」とある。
 さて、世の中では思いがけないところで全く思いがけない人に会うことがある。これも縁かと思う。それを一つ、二つ。
 昭和20年。8月15日に戦争は終ったにかかわらず、北朝鮮の軍司令部の主計局将校だった私は、11月司令部の仲間と一緒に日本に送ると言って騙されて元山の港から貨物船に乗せられ、降りたところはポンエット軍港。そこから粉雪がふぶく道を終日歩いて着いたクラスキーノの荒野で天幕生活に入った。毎日薪集めがただ一つの仕事で2、3週間暮していたある日、天幕の隅でボソボソ話している将校の話をそれとなく聞いていると「女房は平壌から横浜に帰してやったのでよかったが・・・」という。相手は軍司令部の法務部の将校で、アラ、ヒョッとしたら、と思って寝転がっている毛布から半身を起してみたらなんとよく会ったことのある元検事のMさんではないか。夫人は私の亡くなった妹の学校の同級生であった。思わず、Mさんと呼びかけると、先方は一瞬びっくりしたが、直ぐ私とわかった。三年ぶりであった。それから昔話となったが、違う部隊で天幕も別。それ切りとなったが、私はソ連邦内奥深くボルガ河畔まで送られて三年。やっと23年の8月にダモイした。
 それから数年。大蔵省に復帰した私は、主計局で最高裁などの予算を主査として担当していた。ある日、広い主計局の部屋の中で、隣りに法務省担当の主査がいる。彼のところで、法務省経理部長が、「ところで、相沢という人が大蔵省にいた筈だが、今どこにいますかね」と主査に聞いている。主査が、「あの相沢君ではないですか、」と私の方をさし示すと同時に私の顔を見たその人はMさんであった。お互いにアッと言ったまま驚いていて、抱き合わんばかりにして再会を喜び合った。全くの偶然が二度重なった思いであった。
 ついでにもう一つ。ソ連に抑留されていた私は、エラブガというボルガ河の支川カマ河の畔の小都市の収容所で2年有余を雪と氷のなかで暮した。北緯55度であった。ちなみにあの岡田嘉子が越境した南北樺太の境界線は北緯50度である。
 そのエラブガは将校収容所となって5千人も収容されていたが、その中に軍人でない保篠龍緒さんという人がいた。民間人である。満州国政府の高官80人ほど一緒に収容されて、野菜の皮むきなどをしていたが、そのなかの一人であった。広報関係にいたのだろうか。
 私は、小学生時代良く読んだ本にモーリスルブランのルパン全集があった。黒表紙で10巻ほどだったか、夜店で買ったもので、この訳者の名前が保篠龍緒であった。一高の先輩で、一高会の集りで初めて会った時、名前を聞いてルパン全集の話をしたら大へん喜んでいた。
 これも何かの縁ではないか。
 北朝鮮に軍司令部が移駐する前中支の漢口にいたが、その1年有余の間にも、ひょっこり中学の同級生に遭ったり、友人との思いがけない再会の場面があったが。紙数の関係もあり、これで止めるが、読者諸賢ご縁を如何に思われるか。
 
 


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